忘れたくないもの

数日前から、眠っても眠っても眠く、仕方なく少し昼寝をした。明日からまた忙しくなるから、今日くらい昼寝をしたっていい。そんな言い訳をしながら。
だからたぶん、ここからは夢だ。
実家の風呂場は、不必要なほど天井が高くて水色のタイル張り。東北の地方都市だから、冬になるととても冷える。
夕暮れ時、その風呂場と隣り合う脱衣所は薄暗かったが、まだ電気をつけるほど暗くはない。
私は、その頃気に入っていたフードつきカーディガンを着ていた。
そして側にある赤い脱衣カゴに、「それ」がいるなぁと思って警戒している。あまりにイヤだったので、うっかり後ろをむいたせいで、背中からそれに憑かれてしまった。
どうもそれは、虫らしい。大きさはテニスボールほど。いや、もっと小さいな。百円入れると出てくる、おまけが入った丸い透明なプラスチックケースに質感は近い。
ただ、ぞっとすることに、手足はしっかりついていて肌色。印象としては、虫というより、ウルトラマンシリーズの初期も初期、ウルトラQにでも出てきそうな円谷事務所製の地球外生物。
そんな虫に取り憑かれ、慌てた私は、「噛まれる前にこれとって!」と兄に背中を向ける。虫は背中で、ゴソゴソと動いている。兄はふたつ返事で、虫をとってくれたが、その虫をどう処分したかはわからない。
正直に言うと、しばらく音信不通の兄に会っていた時点で、これは夢かもしれないとは思っていた。だけど数日前、同じ虫に背中を噛まれかけ、その時は母にとってもらった。これはまちがいなく現実のはずだ。
子供の頃、兄とふたり洗面所で鉢合わせした際は、さみしい気持ちでいっぱいだった。幼い私は、根拠もなく、兄も同じようにさみしいのだろうと思っていた。でもお互い、ねぎらいの言葉をかけるのでもなかった。
居間に戻ると、ピアノの楽譜立てに、五線譜が1枚立てかけてある。それは小学校低学年の私が、父を真似して作曲したもの。作曲と言ったって、一段の旋律だけで、その音符より、脇に落書きした猫と女の子のらくがきの方が目立つ。
実際には、犬らしきものの絵だったはず。少しずつ、事実から物事がはずれだし、夢にほころびが見えはじめた。
サイドボードに置かれたピアノ教則本の束を、手に持ってパラパラ。そこには、いろんな子供用教則本の一部が、スクラップブックのように、混ぜこぜにして貼られていた。たとえばそれはバイエルだったり、バルトークのミクロコスモスだったり。
もうダメだなぁ。もともと楽譜読むのは苦手だったけど、初見ではもうなんの曲かすらわからなくなっちゃった。
せめて自作の曲は、どんな曲だったか覚えておこうと、またピアノの方に戻って、必死で苦手な楽譜を読みながら、ハナウタで旋律を歌ってみる。だいぶ苦労して、ようやく曲の最後まで辿りついたのに、目が覚めたとたん、全てを忘れてしまった。