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『全員巨匠!フィリップス・コレクション展』

全員巨匠!フィリップス・コレクション展

三菱一号館美術館にて
2018年10月17日~2019年2月11日
三菱一号館美術館

フィリップス・コレクションは、1921年に開館したアメリカ初の近代美術館。その収蔵作品から、選りすぐりの75展を展示した展覧会。

ドラクロワやコローなど19世紀の巨匠から、マネ、ドガ、モネ、セザンヌ、ゴーギャン、ピカソ、ブラックと、近代絵画のオールスターがきら星のごとく並ぶ。確かに展覧会のタイトル通り「全員巨匠!」。数年後に開館したニューヨーク近代美術館(MOMA)とともに、近現代美術館の草分け的存在で、どちらの美術館も一筋縄ではいかない名作を取りそろえている。

青の時代でもキュピズムでもなく、彫刻作品が一番目立ったパブロ・ピカソ。そのピカソも一目置いたジョルジュ・ブラックは、キュピズムと決別した後、晩年の印象的な静物作品がいくつか。個人的には、二本の樹に自転車が立てかけられ、画面右に雨らしき白く短い線が数本踊る「驟雨」(1952年)という作品が好きだった。

ゴッホは、おそらくサン=レミでの療養時代に描かれた「道路工夫」(1889年)が印象的。若い頃は、日本での人気があまりにすごすぎて、正直に言えなかったけれど、やっぱり私はゴッホ好きですね…。

絵はがきか図版で死ぬほど観ているはずが、実物を初見だったのは、ワシリー・カンディンスキーの「連続」(1935年)。後期のパリ時代の作品で、実物は想像以上に大きく感じられた。どうやら絵はがきサイズの方に、慣れてしまったようで。

青騎士時代に、そのカンディンスキーの親友だったフランツ・マルクの動物の絵は、当時の最前衛ながら、人柄が感じられてなんだかあたたかい。そのマルク作のキュートな「森の中の鹿」(1913年)は、作品のレプリカが写真撮影できるスペースにも展示。いまのSNS時代、写真が撮れることは重要なんだろうけれど、そこまでして写真を撮らなくてもと、正直に言えば思ってしまった。

実物をいままで観たことがなかった作品で、特に印象深かったのは、息が詰まりそうなほど濃厚で色彩鮮やかなアドルフ・モンティセリの「花束」(1875年)。セザンヌやゴッホに影響を与えたというのも納得。それから、こちらも大胆極まりない筆致で、嵐のすぐ後の一瞬を見事に捉えたシャイム・スティーンの「嵐の後の下校」(1939年)。故郷・ベラルーシ(当時はロシア帝国)の風景を珍しく描いたとされるこの作品は、幼い頃、嵐の前後に感じた不安でたまらない気持ちに、一瞬にして私を引き戻してしまった。絵画が持つ力は、本当にすごいですよ。

『福島県立美術館「常設展」』

福島県立美術館「常設展」

福島県立美術館ホームページ

久々に福島県立美術館へ。

調べもせずに行ったので、企画展は残念ながらお休み。十数年ぶりに常設展を観ることにした。

中高生時代、この美術館の建物や目の前の銀杏並木、その上に広々とひろがる青空が好きだったので、作品だけでなく、美術館全体の雰囲気を感じるためにも、企画展のない日でよかったのかも(ちょっと負け惜しみ?)。

ここの常設展は、目玉がアンドリュー・ワイエス、ベン・シャーン、関根正二、斉藤清と、なかなか通好み。

若い頃は、あまりワイエスに興味がなかったけれども、年齢を重ねて色々と考え方が変わったせいか、人間味溢れる光と影のリアリズムに、すっかり魅せられてしまった。

展示されていたのは、『ガニング・ロックス』『ドイツ人の住むところ』『そよ風』『冬の水車小屋』の4点。『松ぼっくり男爵』は、どこかに貸し出し中かな?

スティーブン・キングに、『悪霊の島』というアート界隈を扱った長編ホラー小説があって、その中でワイエスについてこんな風に書かれていたことを思い出した。
「さらにアンドルー・ワイエスのある種の作品――〈クリスティーナの世界〉ではなく室内画だ。光が正常でありながらも異常な客間。絵では、光が二方向から射しているかに見える」

同じ絵ではないから全く同じではないが、やはり室内画の絵を通して、同じように「正常なようで異常な光」を愉しむことができた。キングの記述力はやっぱり正確。

『現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展(ヤゲオ財団コレクションより)』

現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展(ヤゲオ財団コレクションより)

東京国立近代美術館にて
会期:2014年6月20日(金)〜8月24日(日)
10:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日:月曜日(7月21日は開館)、7月22日(火)

「ヤゲオ財団」(台湾の巨大電子機器メーカーの社長が運営)所有作品の展覧会とのことなので、要するに私財で集めたコレクション。

ゲルハルト・リヒター、アンディ・ウォーホール、フランシス・ベーコン、マーク・ロスコ、そして中国・台湾からは蔡國家にザオ・ウーキー、日本の杉本博司、さらには美術への功績も作品も大きいアンゼルム・キーファーまで、そうそうたる面子の作品が、所狭しと軒を並べる。

そんなビックネームばかりではなく、評価が上がるのはこれからという作家の作品も、主にアジアを中心に集められていた。

この展覧会のおもしろいのは、「コレクター目線」と「美術鑑賞目線」の両方から、作品を観られるところ。作品それぞれに、市場価格と美術界での評価を対比する解説がつけられ、参加したいと思えば、50億という「仮想通貨」をもらって、自分好みのコレクションを作ることもできる。

例えば、教科書にも載っている日本人にとってはビックネームの藤田嗣治より、2011年に亡くなってから人気がうなぎ登りのサイ・トゥオンブリーの方が、はるかに市場価格が高いなど、絵画市場での評価は、目まぐるしく移り変わっている。

それにしても、これらの作品を普通に家に飾っているとはすごい。家にどう飾ってあるかといいう模型も、同時に展示されていた。風呂に入りながら絵を観るために、湿気から守って絵を飾れるシステムにはちょっと感激。

などと脳天気に観ている私とは対照的に、浅田彰氏のこの展覧会への視線は厳しい。展示の仕方やタイトルの付け方、アートマーケットでの評価をキューレーター側での咀嚼なしにそのまま使うことへの危機感、他作品に比べて代表作品とは言えないマーク・クインの「ミニチュアのヴィーナス」を展示の目玉としてポスターに載せる感性についてなど、罵倒のごとく苦言を呈している。

興味のある方は、こちらからどうぞ。
REALKYOTO – CULTURAL SEARCH ENGINE » 「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である」か?!

『横浜トリエンナーレ2014』

「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」

2014年8月1日(金)~11月3日(月・祝)
横浜美術館、新港ピア
横浜トリエンナーレ2014公式ホームページ

東京在住だった頃は、ふらりと出かけていた横浜トリエンナーレに、今回は福島から新幹線に乗って参戦(?)。体力には自信がなく、日帰りはちょっときつい…。

気になった作品を、無責任にいくつか。感想も無責任に。

会場に入る前、駅ビルでギムホンソックの『クマのような構造物』に遭遇。クマとも黒いごみ袋ともつかない姿に目は釘づけ。タイトルのごとく、この作品が本当に「クマと構造物」のど真ん中に位置しているのがすごい。

まずは横浜美術館の方へ。マイケル・ランディの『アート・ビン』は、希望者が「失敗したアート作品」を持ち寄って、放り込むという「失敗作の墓場」。この墓場、とにかく巨大なんですよ。階段を登って、放り込むのはさぞ心地よかろう。何よりも、あの衝撃に耐えられるガラスの強さがすごい(そこ?)。

イザ・ゲンツゲンの『世界受信機』は、コンクリート片で作られたラジオ。他のミニマルな作品が、沈黙を装いながらかえって雄弁なのに対し、このラジオからは振っても叩いても何の音も聞こえてきそうにない。電波を受信するどころか、逆に音を閉じ込めてしまいそうな灰色の塊。

十字架の中に巨大な砲弾を配したエドワード&ナンシー・キーンホルツの『ビッグ・ダブル・クロス』の印象は、非キリスト教圏に生きる私達にとっても衝撃的。美しいのがまた罪深い。

どんな優れた作家でも、戦意高揚のために使われてしまえば、もれなく愚かに見えてくる『大谷芳久コレクション』と、意見を言うことが極めて難しい戦時中にもかかわらず、軍による芸術利用を批判した松本竣介の書簡は、鑑賞者全てがふたつの視点から物を捉えられることを前提にしたなかなか難しい展示。

横浜美術館の駐車場を、もっと殺風景な地下室という作品に変えてしまったのが、グレゴール・シュナイダーの『ジャーマン・アングスト』。天井の低さ、コンクリートの打ちっぱなし感、裸電球の薄暗さ、汚水のプールと狭い通路。すべてが揃いヤバイ場所に入り込んだ感満載で、タイトル通り不安を感じつつも、久しぶりに会えた友だちとふたり、謎のロッカーを開けたり閉めたりしながら、思わずはしゃいでしまった。人が不安を感じ、鬱屈した感情をため込む場所は、国や人種が違おうとも、同じような環境なのかもしれない。

場所を新港ピアに映すと、やなぎみわの『演劇公演「日輪の翼」のための舞台移動車』がお出迎え。トラック野郎のトラックを、もっと巨大に、キュートにした感じで、今回の展示作品の中でも、一番のハッピー感を演出。ただ、この作品にしろ、大竹伸朗の『網膜屋/記憶濾過小屋』にしろ、70年代東北生まれの私にとってすら、こういった土着の雰囲気にあまり心理的接点がなく、少し戸惑いも覚えた。身近なはずなのに遠いというか、何というか。いっそのこと、違う文化圏の出身だったなら、もっと素直に観られたのかも。

土田ヒロミの『煙崎宏 撮影拒否』は、「原爆の子」に広島原爆の被爆体験を寄せた被爆者たちを、その後取材して撮影した作品。私の記憶違いじゃなければ、60年代と最近…の1人2枚ずつだったと思う。60年代には取材拒否していた人が、年老いてからは穏やかな表情で写真に映っていたり、意志を持って取材に応じていた人が亡くなり、遺影となって奥さんと共に写真におさまっていたり。爆風と高熱にやられた遺品も、整然と写真におさめられ、抑えた作風だからこそ、複雑な感情が押し寄せてきた。

日本初紹介というイライアス・ハンセン『見かけとは違う』は、フラスコやビーカーのような実験道具に木や金属という奇妙な取り合わせで、快適な「プライベート空間」を創造。ピンクや黄色、青というちょっとチープな照明が心地よい。よく考えるとかなり変だけど、この部屋に住んでみたくなる。

ギムホンソック『クマのような構造物』

マイケル・ランディ『アート・ビン』

グレゴール・シュナイダー『ジャーマン・アングスト』

土田ヒロミ『煙崎宏 撮影拒否』

『演劇公演「日輪の翼」のための舞台移動車』

イライアス・ハンセン『見かけとは違う』

『マリオ・ジャコメッリ写真展 THE BLACK IS WAITING FOR THE WHITE』

マリオ・ジャコメッリ写真展
THE BLACK IS WAITING FOR THE WHITE

東京都写真美術館にて
2013年3月23日~5月12日

仕事の手を一度止め、最終日の閉館間近に滑り込みで『マリオ・ジャコメッリ写真展』。

展示枚数が多い写真展だと、途中で疲れて写真の上っ面を視線が滑るだけになる堪え性のないタイプなのだけど、この写真展ではそんな瞬間は一度もなかった。

作品に吸い付くように、視線が離れない。

もうすぐ命が尽きる人ばかりがいるホスピスや、闘病末期のキリスト教信者が最後の救いを求めて押しかけるフランスの聖地ルルドなど、死との境にある被写体も多くいる場所が舞台で、抱えるテーマは重いが、ひきつけられてやまないのは、「写真そのもの」が持つ魅力のため。

白黒の素晴らしい写真や映像を観ると、カラー写真よりむしろカラフルと感じてしまうことがある。黒から白、逆に白から黒の間の数えきれない色のグレースケールに、神経が研ぎ澄まされていくのを感じる。

残念ながら、写真について語る言葉や技量のない私には、感じたことをただ並べることしかできないのがもどかしい。

ジャコメッリのカメラのファインダーを通すと、実際に映った光景の裏側にある秘めた真実が浮かび上がってくる。

たとえば、ルルドを訪れる瀕死の巡礼者より、もはや死を受け入れたホスピスの人たちの方に、わずかに残された「生」がいきいきと感じられたり、幸せの絶頂のはずの恋人達が被写体なのに、すぐ壊れてしまいそうな儚さを感じたり。

イタリアの貧しい家に生まれながら、独学で写真を学び、印刷業を営んで生計を立て、最後まで「アマチュアカメラマン」の立場を通したジャコメッリ。

シュールな作品の方も有名で、強いコントラストを感じる写真の多くは、どんな重いテーマを扱っていてもどこかスタイリッシュで現代的。それなのに写真特有の「古めかしさ」や詩情の方も、同時に備えている。

いつもながら時間に追われての鑑賞だったが、できるなら一枚一枚もっと時間をかけて眺めたかった。こういう写真展を観ると、美術や写真の関係者だけはなく、いろんな職業や立場の人の感想を聞いてみたくなる。

『アラブ・エクスプレス展』

『アラブ・エクスプレス展』

2012年6月16日(土)-10月28日(日)
森美術館にて
森美術館内特設リンク先

先月末、森美術館で行われた『アラブ・エクスプレス展』を、駆け込み鑑賞。ネタ的に購入したのが写真のキャンディ。

作家が米軍のイラク侵攻の後に、アメリカを旅したとき、彼がイラク人だとわかると、何人かのアメリカ人から「I’m sorry」と言われたのだとか。このキャンディは、そのときの驚きを、「I’m sorry」をネオンで囲むことで表現したというアーデル・アービティーンの作品にちなんでいる。

今までも、アラブ諸国出身の作家の作品は、単体で観たことはあった。でも、これだけ色々な国の作品を、一気に観られるのは、かなり珍しい体験。アラブ諸国とひと口で行っても、おなじみのイラン・イラク・サウジアラビアはもちろん、比較的自由なトルコ、開発バブルでどんどん景色が変わっているドバイまで、その文化、歴史的背景、近代化のレベルは、まさに多種多様。当然そこから生まれる作品も、似たものはひとつもなく、使う手法もさまざま。

悲しみを癒すためのやさしや繊細さ、造形や色彩の美しさに感動し、戒律が厳格で融通がきかないというステロタイプのアラブのイメージを打ち消してくれた展覧会ではあったのだけれど…。

親近感を抱くと同時に、東日本大震災を体験した後でもなお、紛争や戦闘が永遠と続く地域とは、決定的な違いがあるのだと感じもした。

個人的には、どんなに絶望的な状態でも、ユーモアを忘れない作品に、特に心惹かれる。先述の「I’m sorry」もそうだし、実際の戦闘中に戦闘機からまかれたビラを、ポップでキュートな画風に作りかえることで、人々の深い心の傷を塗り替えようと試みた作品や、言い訳ばかりしてちっとも作品を仕上げない美術作家についての映像など。

ちなみに「I’m sorry」キャンディーは、なかなかおいしかったです。

『本城直季 LIGHT HOUSE skåne』

“本城直季 LIGHT HOUSE skåne”

2011年9月24日(土)~11月5日(土)
nap galleryにて
NAOKI HONJO

時間ギリギリだったけれど、nap galleryの”LIGHT HOUSE”展を強行鑑賞。

題材は、空中から4×5判カメラで撮影されたミニチュアのような海辺のボートハウス。撮影場所は、スウェーデン南部のスコーネ地方というところらしい。

何もかもがはっきりしているのに、大小のバランスが崩れて見えることで、こちらの感覚もグラグラしてくる。うーむこれは、描写が困難……。

もうひとつの展示場でやっていたという路地裏シリーズも観たかったな。

『ウィリアム・ケントリッジ 歩きながら歴史を考える:そしてドローイングは動き始めた……』

ウィリアム・ケントリッジ 歩きながら歴史を考える:そしてドローイングは動き始めた……

国立近代美術館にて
会期:2009年9月4日(金)~10月18日(日)

この頃は、仕事でアニメ雑誌の編集部に出入りできるのですが、アニメ雑誌の誌面は、構成やデザイン、内容に冒険があってなかなか刺激的です。

編集者としてまだ未熟なせいで、就職してからは、休日もほぼ出勤状態(会社のせいではなく、自分のスケジューリングミスのためです…)。美術展にも映画にも行けず、意気消沈していたところ、アニメが取り持つ縁なのか、この「ウィリアム・ケントリッジ 歩きながら歴史を考える  そしてドローイングは動き始めた…展」にようやく足を運べました。

ウィリアム・ケントリッジは、南アフリカ・ヨハネスブルグ出身のアーティスト。一見したところラフだけど、よく見ると驚くほど見事な筆使いで描かれたドローイングのアニメーションは、シュールな話の展開で、あらゆるものを風刺します。

でもその風刺は、イデオロギーに囚われたものではなく、もっと複雑で自由なもの。これは想像にすぎませんが、複雑な歴史を持つ南アフリカでは、こういった風刺が、私たちが住む世界よりずっと身近なのでは?

古びた印象の単色手描きアニメーションは、ビジュアル的にそれだけでも美しい。でも、風刺的な内容と組み合わさることで、さらにそこに複雑な趣きが加わり、独特の時の流れで歯車がまわりはじめます。

時間を伴う動画系の作品ばかりだからこそ、もっともっと作品の前に、ゆっくり座る時間が欲しかった。これはリハビリ回なので、そのため息だけを残し、日記風に終わります。

『-強制再起動-』 

-強制再起動-

於)レントゲンヴェルケ
アート・コンプレックス北館3F
展示アーティスト:フロリアン・クラール、長谷川ちか子、桑島秀樹、長塚秀人、小川信治、サイモン・パタソン、笹口数、田中偉一郎、渡辺英弘

四月の末、六本木ヒルズができたことで、だいぶ印象の変わってしまった六本木の芋洗い坂にできたのが、アート・コンプレックス『complex』。

昨年末にクローズされた佐賀町食糧ビルの想いを継ぎ、ひとつのビルごとアート発信地にしようという試みで、建物内には、アートギャラリーだけではなく、カフェバーや建築・アートスタジオもある。中央にあるふたつの階段を境に、右と左にスペースが分かれるちょっとおもしろい空間。

右の階段を選んで、通称北ウィング3Fまで階段をのぼると、そこにあるのがギャラリー「レントゲンヴェルケ」。扉にはプルトニウムのマーク。危険、危険?

しかも展覧会のタイトルは『ー強制再起動ー』。

ガラスに文字を小さく刻印した作品からはじまって、実際にある風景なのに不思議な印象が漂う写真、毒虫特有の美しくカラフルな柄を横に長い宝石箱のようなものにコレクションした作品等、強い個性を持つバリエーション豊かな作品群に触れ、タイトルに負けないインパクトを受けたところで、最後の作品が待っていた。

床に直置きされたホームビデオの小さな画面を、屈み込んで覗くと、窮屈さと引き換えに「鳩の視点」を手にすることができるという作品。

タイトルもズバリ「鳩命名」(だったと思う…)。鳩の視点まで下りたカメラが、どれも同じに見える鳩の一群から、一羽を選んでクローズアップする。するとそこに、作者が勝手につけた名前のキャプションがあらわれる。

その名前というのが、一羽ずつ特徴を見事に捉えているからおかしい。なるほどこの子は若いお嬢さん、こっちはおばあさんかな、うーんこれは確かに男性だ。どれもいかにもありそうな名だけど、平凡すぎることもなく…。

するとそこに一羽のカラスが! つけられた名は、カール・シュミットとかなんとか。とにかく西洋人の名前。確かにカラスのシャープさは、頭のなかで自動的に西洋人の像を描く。そんな風に感じるのは、鳩の細かな特徴を、じっと観察しつづけていたから?

抗いがたい命名の誘惑。そんなアホなと頭を振っても、もはや切り離せなくなっている固定イメージの数々。圧倒的なナンセンスさで、思い出すとついいまも笑ってしまう。

『エイヤ=リーサ・アハティラ 展/ 「ヴィデオアート」と「映画」の境界』

エイヤ=リーサ・アハティラ 展/ 「ヴィデオアート」と「映画」の境界

2003年3月21日(金)~6月8日(日)まで
東京オペラシティーアートギャラリーにて

フィンランドのヴィデオアーティストであるエイヤ=リーサ・アハティラの展覧会。今回の展示は、複数のスクリーンを用いたヴィデオインスタレーションが中心。ひとりの女性を主人公に配して、彼女の精神崩壊の危機を描く。

たとえば3面に渡った画面で、それぞれ少し時間をずらしながら進む映像からは、張りつめた精神状態の女性の心境が、痛いほど伝わってくる。理想と現実。そのギャップの前に、もろく崩れ去ってしまった女性たちは、いささか極端な形で映像の中で主役を演じる。

そこまで極端ではないにしろ、まわりから見たらさぞ滑稽だろうという心理状態に陥ったことは、私だって多少はあるわけなので、なんだか身につまされる思いで、この十分ほどの物語を眺めてしまった。

自己愛の極地……。確かにそうなのだろうけれども、それを全く他人事と思えるほど、私自身も強くない。

例えば最初の映像に出てくる白人女性は、叫んでまわりに不快感を与える近親者がいるため、精神的に極限に達しても叫ぶことができず、その代わりに自分の手を噛む。怒ってベットを壊すにしても、きちんとマットレスをはずして準備する。彼女は自分の行動が、滑稽だとたぶんわかっている。そんな鬱屈した行動のため、見ている側は、気持ちよくカタルシスも感じることができず、なんだか宙ぶらりんな心境に。

「精神科医になるつもりだったのに、自分が精神科に通うことになるなんて思わなかった」というモノローグなど、気の毒と思っていいのか、笑うところなのか……。

完全に狂えるわけではなく、理性に片足をつっこんだまま。ああ、自分はおかしくなっているなぁと、外側から自分を見つめているもうひとりの自分がいる。それが伝わってくる映像は、精神的な危機状態を、極めてリアルに示唆しているのではないだろうか。

それでいて、色とりどりのミニカーが配された壁や、自然のなかを「中途半端に」飛ぶシーンなど、魅入られてしまうシーンも多かった。

ただ、この作品にうっかり感情移入してしまうと、「私ってこれから社会でやっていけるのか」などと感じて、ドーンと落ちこんでしまったりするのでちょっと注意。