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『大陸漂流』

MONKEY vol.12 翻訳は嫌い?

石川美南、ケヴィン・ブロックマイヤー
柴田元幸 訳
ササキエイコ 絵
(MONKEY vol.12 SUMMER/FALL 2017)

奇想的短編の名手であるケヴィン・ブロックマイヤーが、石川美南の短歌にインスピレーションを受け、少し乾いた独特の文体で紡いだ荒唐無稽な短編小説。MONKEY vol.12 SUMMER/FALL 2017に収録されている。

その石川氏の短歌とは、
『陸と陸しづかに離れそののちは同じ文明を抱かざる話』

なるほど。これは確かに「五七五七七」(字余り?)。この短歌の内容通り、ブロックマイヤー氏は、本当に「陸と陸を離れさせて」しまう。

十四歳のマヤとルーカスは、ある日門限を破って、はじめて恋の喜びらしきものを知るが、それぞれの家に戻った翌朝、ふたりの家のあいだの地面に大きな裂け目ができ、その裂け目は、あっという間に広がって、マヤの家がある地域とルーカスの家がある地域は、ふたつの大陸に別れてしまう。それからしばらくは、ふたりは会えなくなったことを嘆き、文通を続けるが、やがてお互い思い出すことすらなくなる。

ふたりはちょうど成長期で、思春期を経て成人、そして社会人になるなど、一番慌ただしい時期だったから。それからも時の流れは止まることなく、あっという間に年をとる。

マヤは三度結婚をしたがいずれも離婚し、結局ひとりで生きることを選んだ。ルーカスは、結婚の機会にこそ一度も恵まれなかったが、何人もの子供の養育に係わるなど、精一杯社会に貢献しようとした。

希望に満ちてはじまった人生が、十代の頃思い描いたように、うまく進むとは限らない。ふたりはやがて老境に差し掛かり、自分たちにも十四歳の頃、情熱に満ちた日があったことを思い出す。

奇想的短編の名手と呼ばれるブロックマイヤーだけあって、驚きの結末へと導く話の展開はさすが。そして話の筋だけではなく、物語を紡ぐ言葉の表現の方もまた、独特な魅力に満ちている。一行ごとに新鮮な驚きを感じながら、最後まで一気に読み終えた。

スリップストリーム好きとしては、石川氏の短歌とともに、ブロックマイヤーの他の作品も読みたくなった。それなのにブロックマイヤーの本は、日本での出版社が倒産したこともあって、いまでは古本でしか手に入らないのが残念…。

『MONKEY vol.12 翻訳は嫌い?』

MONKEY vol.12 翻訳は嫌い?

スイッチパブリッシング

文字の多い文化系雑誌を一冊読み切るには、意外と時間がかかるもの。だからだいたいは、一部分だけ読んで、後は放っておくことになる。

でもまれに、隅から隅まで読めるという雑誌はあって、久々にそんな幸運に恵まれたのが、この「MONKEY vol.12 翻訳は嫌い? 」。SUMMER/FALL 2017とあるから、発売してからももう5年も経ってしまった。とはいえ、あえてタイムラグある読書を楽しみたいなら、紙の本を「積ん読」が一番。現代では、どんな価値のある本でも、すぐ買っておかないと、あっという間に絶版になってしまうから。

編集人の柴田元幸による『日本翻訳史 明治篇』や、翻訳に纏わる村上春樹と柴田氏の対談をはじめとして、森鷗外への愛があふれる伊藤比呂美と柴田氏の対談など、翻訳を主題とした特集はもちろん、ポール・オースターへのインタビューや、イタロ・カルヴィーノの名作『見えない都市』抄なども。

個人的に、特に印象が深かったのは、海外文学の影響色濃い石川美南の短歌一首をテーマに、アメリカの奇想天外短編の名手であるケヴィン・ブロックマイヤー氏が紡ぐあじわい深い作品『大陸漂流』や、同じくアメリカ出身の短編名手であるリディア・デイヴィスによる『ノルウェー語を学ぶ』、独特なことばのセンスを持つミュージシャン小沢健二の『日本語と英語のあいだで』。

その他、いつもならちょっと苦手意識を持っていた書き手でも、今回は楽しく読めてしまった。

そのうち、興味ある作品について、なにか書き残していきたいけれど、いつになることやら。どうせ書くなら、最新号について書けばいいのにね。我ながら、時の流れの感覚がおかしいことに呆れます。

『天のろくろ』

天のろくろ

アーシュラ・K. ル=グウィン 著
脇明子 訳
(サンリオSF文庫 1979年刊行)

1978年から1987年のあいだ存在していたが、いまはもうない『サンリオSF文庫』の一冊。貴重な品を貸して頂いた。

普通ならサンリオというとキティちゃんとかなんだろうけど、私にとっては中高生時代愛読した『詩とメルヘン』の出版元。なので出版社があるとは認識していたが、田舎育ちの悲しさ、SF文庫の存在は結構最近まで知らなかった。

職業病で、本編を読むより前に、巻末にある同文庫のラインナップを覗いてしまう。ル=グウィンの他にも、フィリップ・K・ディク、ウィリアム・バロウズ、レイ・ブラットベリと、ウキウキしてくるような人選。読みたい作品も多い。でも残念ながら、この文庫シリーズは、もはや存在しない。

ル=グウィンは、『ゲド戦記』の作者として、日本では特にジブリアニメを通しておなじみ。他にも『闇の左手』『所有せざる人々』(どちらもハヤカワ文庫SF)などたくさんの代表作があるが、個人的には、絵本『空飛び猫』(講談社文庫)の作者という方が馴染みが深い。

宮崎駿氏は、80年代から『ゲド戦記』シリーズを作品化したくて交渉してたそうだけど、ル=グウィンときたら日本のアニメすら観たことがなく、最初は断ったのだとか。数年後に『となりのトトロ』を観る機会があり、映像化するならこの監督に撮ってもらいたい考えを変えた。紆余曲折の末、監督が息子の吾朗氏に移ってしまったのは、ご存じの通り。

トトロの世界を評価する考え方は、ル=グウィンの生い立ちを考えるとなんとなく理解できる。父は著名な文化人類学者。母は、その父が深く関わったインディオ「イシ」という男性の評伝を書いた人物。

そのあたりは、池澤夏樹編集の河出書房版『世界文学全集 近現代作家集Ⅲ』にも載っていた鶴見俊輔の評伝「イシが教えてくれたこと」に詳しい。思想家として著名な鶴見氏なので、難しいのかなと思っていたが、文章が平易で驚くほどわかりやすい。とてもおもしろかったので、ル=グウィンに興味を持つ方ならぜひ。

この作品は、そのル=グウィンよる長編SF小説。突飛とも言える発想が、明快な文章と深い洞察に支えられている。

ある日、夢をみると、その夢が本当になり、現実を書き換えてしまう能力を与えられてしまったオアという青年が主人公。夢をみないように、睡眠薬に頼り続け、ついに薬を不法に取得したかどで、「強制治療」に送りこまれてしまう。

ヘイパーという博士に、暗示をかけてもらうことで、夢を制御しようとするのだけど…。

現実を変えてはいけないと考えるオアは、みる夢の効果をなくすことを望むが、ヘイパー博士は、夢の効力を使って、世界を「優生学的に優れたよりよい世界」にしようと考え、オアを利用し続ける。そのたび世界は、めまぐるしく変わり続け、オアの潜在意識や無意識の抵抗が、世界を混乱に陥れる。

人間の力で、自然や社会をねじ伏せようとするヘイパー博士の野心は、ある種欧米的。東洋人の端くれである自分は、本能的に、あるものはあるがままにしておく方がいいと感じるオアの姿勢の方に、どうしても共感してしまう。

あとがきによると、「天のろくろ」という作品タイトルは、『荘子』英語版の「誤訳」からつけられたのだそう。たとえ誤訳だったとしても、訳者も言っている通り、このタイトルから紡がれる世界だからこそ味わい深い。

どんなに世界をよくするためであっても、人工的に手を加えれば、変えるつもりのなかったどこか見えない部分も変わってしまい、世界はどんどんいびつになる。

この本が訳され、出版されてもう35年がたったことになるが、当時より今の時代の私たちの方が、このことを痛感できるのでは?

もしどうしてもいじらないといけないなら、オアのような人物に制御してほしい。ヘイパー博士ではなく。でも実際は、そううまくいかない。

自分のふるさと福島が、東京電力営業の福島第一原発の事故で、散々踏みにじられたのを目の当たりにしたせいか、特に強くそう感じる。

そういったストーリーだけでなく、丁寧に編まれた細部もこの本の魅力のひとつ。久しぶりに読書のおもしろさに突き動かされ、ページをめくる指が止まらなくなった。

『苦役列車』

苦役列車

作者: 西村賢太
出版社/メーカー: 新潮社
発売日: 2011/01/26

西村賢太の『苦役列車』を読了。この主人公よりもはるかに優遇された人生を送っているはずなのに、その「劣等感」に妙な親近感を感じてしまうのはなぜ?

父親が性犯罪を犯したことがきっかけで、人生の落伍者になりかけている二十歳そこそこの青年が主人公。主人公は、すぐにお金をもらえる日雇いの仕事に慣れてしまい、そこから這い上がることができなくなっている。お金がなくなると、無一文のまま日雇い仕事の送迎バスに乗るような行き当たりばったりの毎日。

アウトサイダーを気取るほどの余裕もなく、社会を批判するほど高潔でもない。本当は「上の世界」に憧れながら、自分はここにいるしかないのだと言い訳し続ける情けない日々。

最近は私小説と銘を打って自分を題材にして書いても、私小説になり切れない作品が多い中、よくも悪くも見事に私小説の系列。

自分を美化することも正当化することもない登場人物を描ける。そんな作家として必要な資質を、持っている作者だと感じた。

『予告された殺人の記録』

予告された殺人の記録

作者:ガブリエル・ガルシア=マルケス
訳:野谷文昭 
出版社:新潮社

コロンビアの作家G.ガルシア=マルケス作『予告された殺人の記録』を読了。マルケスは、焼酎の名前にもなっている(えっそこ!?)マジック・リアリズムの傑作『百年の孤独』でもおなじみ。

てっきり再読だと思っていたのに、読めども読めども、何も思い出せない。どうやら小説の方は読んでなくて、映画しか観ていなかったらしい…。そしてあまりに昔で、映画の方も内容すら忘れている。

ある片田舎で村を上げての盛大な婚礼儀式が行われ、次の日に、ひとりの男性が殺される。しかしそのことは殺す側の双子が、誰かに止めてほしかったからか大っぴらに周囲に予告済み。本人と家族以外、村中の誰もがそのことを知っていたのに、偶然や無意識の悪意、逆に善意が裏目に出るなど不運が重なり、殺人は行われてしまう…。

『百年の孤独』とはまた少し違って、この作品は現実にあった事件を題材にしている。殺された男性の友人を話者として、一見するとルポルタージュ風に語られるが、こういう現実をモチーフにした短い小説の方が、マルケスの想像性の豊かさ、伏線の貼り方の見事さなど、小説の書き手としての圧倒的な「うまさ」を感じることができる。だから最後までルポルタージュ風に進んでも、十分読ませるのだけれど、ため息が出たのは現実とも幻想ともつかない最後の殺害シーン。あまりにも美しかったので。

コロンビアの田舎町に、私は行ったことがない。でも、地方に生まれ育ち、そこに適応できなかった人間のひとりとして、悪意がなくてもひとつの共同体が、よそ者や異端者を無意識のうちに葬っていくシステムは、わかりたくなくてもわかってしまう。胸の奥に眠っている複雑な感情を引き出される気分で、息を殺して一気に読み終えた。

マルケスもこの作品を、自らの「最高傑作」とみなしていたのだとか。読みやすくて短いのでマルケス入門書としても最適な一冊。

『星の王子さま』

星の王子さま

作者: アントワーヌ・ドサン=テグジュペリ
訳:池澤夏樹
出版社:集英社

少し前になりますが、表参道のスパイラルで「池澤夏樹講演会」を聞いてきました。

今回の講演会のテーマは、池澤夏樹氏が新しく訳した『星の王子様』と最新刊『異国の客』について。

長いあいだ多くの人たちに読み継がれている『星の王子様』についての話はもちろん、農業に適した恵まれすぎた土地だから神様はフランス人をあんな性格(?)にしてしまったというジョークや、テオ・アンゲロプス作品の字幕翻訳の難しさなどについても聞けて、楽しい時を過ごせました。

手をかけて飼いならしてやらなければ、自然はワイルドになって人間と手を切ってしまうというのがフランス人をはじめとする欧米人の「自然観」。その自然観が、『星の王子様』にも色濃く反映されているのだとか。そこから欧米と日本との自然観の違いへと話は進みました。

また当時、「飛行機に乗る」ということは、まだ命がけの「開拓」でした。そのせいかサンテックス(サンテクジュペリのことを、親愛の気持ちをこめてこう呼ぶらしい)は、飛行機に乗ることと農業に共通点を感じ、人間にとって農業は一番大切なものだと感じていたそうです。

そうやって、池澤氏の穏やかな語り口で語られる『星の王子様』についてのエピソードは、どれもこれもが魅力的で、読んだことのない人は、きっと『星の王子様』を読まずにいられなくなったはず。私もそのひとりです。

買った本を、近くの喫茶店で一気に読み終えて、思わずため息をつきました。この本には、こんなに大切なことがつまっていたんですね。

池澤氏曰く、「何度も読んで、自分なりの解釈をしていくのだけれども、それでもまだ読み切れていない気がする。だから何度でも読みたくなる本なのだと思う」。

子供向けに書かれていながら、子供にはきっと読みこなせない。やさしくスラリと読めるけれども、実は書いていない部分にこそ、この本の言いたいことがある。確かにとても難しい本です。ただわからないところはそのままで、わかるところだけ読んでも、大切なものは残される。

特別なことをしたわけではなくても、普通に生きて自然に経験を積んでいけば、「大切なものは目に見えない」という有名な言葉が、この本を通してよく理解できるようになるはずだと思うのです。だから子供の頃にこの本を読んだという人にこそ、もう一度読み返して欲しい。なぜかそんなことを、お節介にも願ってしまいました。

『江戸の占い』

江戸の占い

大野 出 著
河出書房新社

落語を聞いていると、話の脇役として、たまに「辻占い」が出てくる。現代と同じように江戸時代でも、占いは庶民から武家まで広く楽しまれた娯楽のひとつだったそうだ。いや、それどころか、江戸時代の方が最盛期?

それにもかかわらず、今も昔もこの分野が、学問でまじめにとりあげられることはあまりない。『江戸の占い』は、その分野にきちんとスポットを当てることで、今までとは少し違った角度から、時代の雰囲気や風俗を浮かび上がらせようとした本。

当時のおみくじの絵柄や文面、今なら差別問題になりかねない(?)人相占いなど、たくさんの図版が用いられていて、それを眺めていると、確かに著者が望んだように、江戸のひとつの側面を体験できる。今と同じでかなり流行ったらしい安部清明占いの項目では、当時と同じ占いが実際にできたりもする。

それにしても、江戸時代に流行した占い(夢占い・顔相占い・おみくじ…などなど)で用いられた「テクニック」は、驚くほど今の占いに引き継がれている。占術という人智の及ばない特殊技能を前面に押し出しながら、土着的でごもっともな倫理的処世感を庶民に植えつけるため、運・不運を用いてちょっと脅かしてみる。運勢が悪い場合は、災難を避けるために、より良く生きましょうと「運勢転換の思想」を説く。

うーん、現在大人気の某女性占い師なんて、この方法をそのまま使っているような……。

それを知ってもなお、人々は承知で騙されつづける。自分で何かを選ぶことに疲れて、あえて古い価値観で縛ってもらいたい?

騙されることもひとつの娯楽なのかもしれない。それが盛んだった江戸という時代の豊かな側面を、少しだけ垣間見ることができた気分になる。

『私小説―from left to right』

私小説―from left to right 

水村美苗 著
ちくま文庫

タイトルが挑戦的。「私小説」とわざわざ、現代作家が銘打ったら、そこにはなにかがある。

12歳から20年間をアメリカで育ちながら、日本文学を読みふけり、実際の自分とは、違う自分がいるように感じていたこの作者は、横書きで英語交じりの日本語小説を書く。それが彼女の私小説。

これだけの長文を横書きだと、習慣的に少し読みにくくはあるけれども、そのため、現実がシビアにそしてリアルに、読み手まで伝わってくる。

この小説のネックとなるのは、主人公と姉が、広いアメリカで唯一つながれる電話。その電話線のみを通して、姉妹のとめどないお喋りが、彼女たちの過去から現在、さらにぼんやりと見える未来までを行ったり来たりする。

海外(特にここでは欧米)に住む孤独は、繰り返し文学作品で扱われてきた。そしてそれのどれを読んでも、圧倒的な孤独と足もとの不安定さに打ちのめされる。望んで海外に行った人でさえ、晩年になると日本へ帰ってきたがるのを見ると、やはりそういう孤独や不安は、私が想像できないほど切迫したものなんだろうかと考えてしまう。

海外で暮らしたことのない私には、それらを本当に理解することなどできないのかもしれない。ただ、主人公の年齢設定が自分と同じだったこともあって、この小説に書かれたことのひとつひとつが、ヒリヒリと自分の身へ迫ってきた。

海外に住む日本人というのは、もしかして日本に住む日本人が漠然と感じるだけですんでしまうことを、もっとはっきりと受け止めなくてはならない存在なのかもしれない。

横書きでバイリンガルという以外には、現代日本語の感覚から言えば、むしろ不必要に古めかしく感じる。それは作者が日本語を、文学作品から得るしかなかったせいか。

しかしこの作品は、日本という土地にどっぷり浸かっている私たちの現代的な苦しみと不安に、しっかりとつながっている。

『ジャズの本』

ジャズの本

ラングストン・ヒューズ
木島 始 訳
晶文社クラシックス

ジャズを好きと言うと、「おしゃれなのが好きなんだね」と返され、絶句したことがある。そしてとても悲しくなった。

ジャズが好きと言っても、他のジャンルの音楽も同じくらい聴くし、詳しい知識なんてまるでない。ただ心の中にあったリズムと、驚くほど波長の合う音楽は、調べてみるとなぜかジャズに関係していた。そういう音楽を聴けば、ただ理屈なしに共感してしまう。ただそれだけのこと。

もしかして私の好きなジャズとは、現在の洗練されたジャンルとしてのジャズと、少し違っているのかもしれない。そう思ったことがあるせいか、この『ジャズの本』を手にして、はじめのページをひらいたとき、私が漠然と描いていたジャズにイメージがぴたりと一致したので、うれしくて小躍りしたくなった。

著者のラングストン・ヒューズは、ジャズやブルースのリズムの影響色濃い詩で知られ、アフリカ系アメリカ人による様々なアートや音楽、文学の全盛期である「ハーレム・ルネッサンス」の重要な担い手である詩人・作家・ジャーナリスト(ちょっとまとめるのが難しい…)。そのヒューズの平明な語り口、 そして丁寧な翻訳のためか、内容が心にストンと落ちてくる。ざらりとした質感の装丁も、切り絵のような挿し絵も、本を読むよろこびを感じさせてくれる。

『いまお話したようなのが、 ジャズという音楽の発生なので、--みんなが楽しむために演奏をしたことからはじまっています』
『他の国々の音楽とアメリカのジャズを区別する主なことのひとつは、ジャズにじつにリズムの種類がたくさんあることです。ある点では、ジャズはアフリカの太鼓を打つことから成長したといえます。太鼓は人間の基本的なリズム楽器です』

これらはみんな、短くわけられた章を、まとめて「しめる」言葉。それらを一列に並べるだけで、ジャズの精神の基本が透けて見えてくる。

『つまりジャズはいつも人々を「動き」たくさせるのです。 ジャズ音楽は、あわせて動き、あわせて踊る音楽です。--ただ耳を傾ける音楽ではありません』

ジャズと霊歌(スピリチュアリズム)との、切っても切れぬ深いかかわり。ソロウ・ソング(悲しみの歌)とジュービリーズ(喜びの歌)が、ジャズに与えた影響。ブルースの絶望のなかのユーモア。その他に、ラグ・タイム、ブギ・ウギ、即興演奏、シンコペーション、ブルー・ノート、リフ、ハーモニーなどなど、ジャズには欠かせないキーワードが、魅力的な挿話とともに語られてゆく。

『今日の音楽家たちは、ジャズでもってやはり楽しんでいます。--ちょうどむかしのスパズム・バンドの少年たちが楽しんだように。--そして世界中の人々がそれを楽しんでいます。--アメリカの音楽は、楽しみでもあります』

そして当時まだ出たばかりだったロックン・ロールについて、ヒューズが触れた部分。

『ーしかし…歌は正しいのです。愛して、愛があなたに戻ってこないということが、どれほどひどいことかを知るのに、あなたは若すぎるということはありません。それはブルースとおなじほど基本的です。そして、それがロックン・ロールの正体です』
『ロックン・ロールは、それらをみんなごっちゃにして、たいへん基本的なひとつの音楽をつくりますから、それはまるで肉屋の使う肉切り包丁みたいです』
『もしルイ(・アームストロング)が、J.Jやカイはーエルヴィスさえもーじぶんの出てきたのとおなじ海から出てきてのではないと考えるようでしたら、ルイは老いぼれようとしているに違いありません』

鋭くて、それでいて実に優しい。当時まだ新しかった音楽・ロックンロールに対しても、あたたかいヒューズのまなざしを感じる。

『エスター・カーン』

エスター・カーン

アーサー・シモンズ 著
工藤好美 訳
平凡社

十九世紀末から二十世紀のはじめに生き、ヴェルレーヌやマラルメの翻訳者にして、ジェイムス・ジョイス「ダブリン市民」の出版者でもあるイギリスの作家アーサー・シモンズの短編集『心の冒険』。このなかにおさめられている「エスター・カーン」が、最近デプレシャン監督によって映画化されたこともあり、あらためて八篇のなかから五編が選ばれ、「エスター・カーン」を表題にして新書化された。

読みおわって本を閉じると、誰が言ったのかは忘れたけれども、「その時代の文学とは、新しく創られるものではなく、かつて書かれたものの中から、時代が発見するもの」といったような言葉が、ふいに思い出される。それほどにこの小説は、現代にリアリティをもって迫るものと思えた。

作品のひとつひとつは、いずれも納得がいくように人生を送ろうとする主人公が、試行錯誤を繰りかえす物語。

彼らの多くは、「不幸」と思われる状態に着地するのに、それしか方法はなかったと納得できるから不思議。それほど主人公たちは、自分の「本当に求めているもの」を、確実に見つけて迷わずに行動する。不幸とか幸福とか、そんな抽象的な言葉ではとてもあらわせないほど、彼らの取る行動や考え方は具体的で明確。遠い未来を思い描いたり、過去を振り返るのではなく、その瞬間を、ものすごい密度でただ生きる。

最初の「生の序曲」は、作者の自伝的作品。後半で母について書かれた部分が、彼の作品の主人公の存在につながるように思えた。

「母にとっては過去も、現在も、未来も、それはただ一つの存在のそれぞれの瞬間にすぎず、生が彼女のすべてであり、生は滅すべからずものであった。彼女自身の個人的な生命は、眠っている間でさえ、しばらくも休むことがないほど溌剌としていた」

要領が悪くて頑固な女優エスター・カーンも、最後の瞬間まで自分が求めた作品を描こうと試みた画家ピーター・ウェイデリンも、四十歳で初めて愛した自分の妻を「心の都」へ招待して失敗したダニエル・ロゼラも、「自分を愛するよりも深く神を愛する」ために悪魔のように公然と神を冒涜した漁師シーワード・ラックランドさえも、読み進めている瞬間には、いきいきと目の前に立ちあがってくる。

彼らの生き方は、ことごとくまわりとの調和を欠いている。だから不幸という状態に陥るのだろうけれども、たとえ誰がみても幸福という状態でも、納得がいかないこともあるし、不幸だと同情される状態でも、すべての辻褄があっている場合もある。まわりにいる人たちには、彼らの行動は突飛で理解しがたいだろうけれども、読みすすめている読者からすれば、その行動が止むにやまれるものだとわかる。

本を読み終えた時、前書きのデプレシャン監督による指摘に、深く共感した。このアーサー・シモンズという作者は、自分の考え方にあわせて登場人物たちを生み出すのではなく、登場人物たちの生き方を尊重して、彼らの内面の言葉へ耳を傾けながら小説を書いたのだということ。

それぞれの作品の主人公たちは、まちがいなく、納得した生き方を自らの手でしっかりとつかんだのだ。通常の野心や目的とは、かなり違った危険な「心の冒険」によって。