『ニル・バイ・マウス』

ニル・バイ・マウス

原題:NIL BY MOUTH
1997年・イギリス
(監督・脚本)ゲイリー・オールドマン(Gary Leonard Oldman)
(出演)レイ・ウィンストン(Ray Winstone)、 キャシー・バーク(Kathy Burke)他

名優ゲイリー・オールドマンが、監督・脚本をつとめた唯一の作品にして、他の誰にも撮れないような佳作。

私は本当の貧困を知らず、さみしい想いはたくさんしたが、両親にまるで愛情をかけてもらえなかったということもない。 それなのにこの映画で描かれた世界を、残らずみんなわかったなどと言えば、それは絶対に嘘になる。

ただ、共感を覚えたのが、幼い少女ミッシェルの後ろ姿。私自身、年の離れたふたりの兄がいる末っ子で、力の差がありすぎるから常に戦力外。けんかに巻き込まれない代わりに、家族にどんなことが起こっても、ただただ無力、という経験をしているからかもしれない。

常軌を逸した家庭の中で、予測のつかない両親の振る舞いや、そのほかの刺激が多すぎる事柄。それらを声もあげずに見つめる幼い少女の内面は、誰も知りようがない。

彼女の母・ヴァレリーに振るわれるのは、失業者の夫・レイの常軌を逸した暴力。アル中でヤク中の彼は、一度も父から愛情を受けた記憶がない。

そのためか、性格は自虐的で、ひどく曲がった愛情表現しかできない。妻のヴァレリーを愛しているのに、逆に傷つけてしまう。 あまりにひどい暴力に、我慢も限界に達したヴァレリーは、ある日家を出る。せめて彼女の誕生日のお祝いにとやってきたレイに、ヴァレリーはこう言い放った。

「あなたは自分自身を傷つけているのよ」
「もっとミッシェルに父親の愛を」

そのときのレイの困惑したような顔が、忘れられない。一度も父に愛された記憶のない男が、自分の娘に愛をそそぐ。それはきっと難しいことだろう。 しかし暴力を受けて、頭から爪先まで醜く腫れあがり、さらに流産までしたヴァレリーは、それ以上につらいのだ。

※以下、ネタバレ注意

ヴァレリーの弟・ビリーは、強度の麻薬中毒。きわどい日常を送っている。家族の目の前で麻薬を注射する…という醜態までさらす始末。そんなビリーだが、犬が大好き。ファッキングばかり口にする彼が、ラブリーという言葉を使ったのは、知り合ったかなりヤバイ男が抱いていた小犬を、目にしたときだった。

しかしビリーの心の奥には、泥棒だった父が、ある日彼の飼っていた犬を、家族の留守の間に殺してしまったという記憶が、くさびのように打ちこまれている。

なにもかもが悲劇的な状態でも、その中にわずかでも笑いを見つける彼ら。やけくそ気味の笑いとともに、どうにも良くなりようのない日常はつづく。強い刺激のなかに身を置きすぎて、一瞬でも平穏な時が訪れると、幸せのように彼らが錯覚してしまうことが何よりも怖かった。

それらをただ、静かに見つめるミッシェルの瞳に映る風景は、彼女の心に傷を作りながらも、案外淡々と流れているのかもしれない。なぜならそれらは、彼女にとっては、当たり前の日常だから。

ぐるぐる廻るだけで、ひとつも好転してゆかない親子のつながり。そこからせめてミッシェルだけでも、抜け出てくれることを思わず祈った。

『写真論/絵画論』

写真論/絵画論

ゲルハルト・リヒター他 著
清水 穣 訳
淡交社
この本の2005年増補版

旧東ドイツに生まれ、後に旧西ドイツに亡命した現代ドイツを代表する画家「ゲルハルト・リヒター」。

その画家と美術評論家やジャーナリストによるインタビュー集、そしてリヒター自身が書いたノートや日記などをまとめた一冊。

写真や光を用いる技法についてや、本人が意図していないのにイデオロギーとして読まれてしまうさまざまな対象に関して、やはり評論家たちは、論理的にリヒターから、正確な答えを引きだそうとする。しかしリヒターの考え方は、どこかそういう「部分」だけを取り出しては、説明しきれないところがある。

それでも作品はできあがり、勝手な解釈をされてゆく。

様式や「芸術を従属させるイデオロギー」をひどく嫌うリヒター。しかしどんなに様式を嫌っても、ある程度はそれを使わなければ作品にはならない。

そんな矛盾をこえ、作品を作りあげる。これは本当に、大変なことだと思う。

「様式を持たないものはなんでも好きだ。辞書、写真、自然、私。そして私の作品。(様式は暴力行為だから、私は暴力的ではない。)」

本当にそうなのか、彼の作品を観て、確かめてみよう。

『ダンソン』

ダンソン

ダンス
彩の国さいたま芸術劇場にて
1995年5月初演
ピナ・バウシュヴッパタール舞踊団

一緒に観たダンサーの友人が、「あんなに楽しそうにダンサーたちが踊っているのをみると、うれしくなってしまう」と言っていた。

Tシャツを、脱がせあうことまでダンスにしてしまうしなやかさは、演劇的にも純粋に楽しめる。

とにかく、ダンサーひとりひとりの個性をよく知っている。気ままなようで、「自然に」計算されているんだろう。 水槽の前で、哀愁を漂わせ、はかなげに踊るピナ・バウシュは、とても素敵な女性。

また、「種まきおじさん」と「ナンダッテヤッテヤル」のおばさまの、すっかりファンになってしまった。 ただ、日本語のギャグは、ちょっと寒かったな?

『チャパクア』

チャパクア

1966年アメリカ
俳優座トーキーナイトにて
(監督)コンラッド・ルークス
(撮影)ロバート・フランク
(オリジナル音楽)ラヴィ・シャンカール
(音楽アドバイザー)フィリップ・グラス
(出演)ジャン=ルイ・バロー, ウィリアム ・S・バロウズ ,アレン・ギンズバーグ,オーネット・コールマン

純粋さがこうじて、真っ黒になってしまった。そんな印象の映画。

麻薬中毒を克服するため、怪しげな病院にやってきた主人公。病院に来たというより、収容所に入れられるという趣き。だいたい、病院の医師が、バロウズやギンズバーグじゃ、余計に悪くなりそう…。

麻薬の幻影が永遠と続くが、さすがにこの面子だけに、センスの塊でかっこいい。訳がわからなくても観ていられる。一見の価値はあるのだけれど、この後につづくものに、与えるものがなにもないという感じ。行き止まりの完成というのだろうか。

生バロウズ・生ギンズバーグ・生コールマンが見られます。

麻薬で、「悪夢」以外をみるのは、難しいみたいだ。