about cinema and artfilm」カテゴリーアーカイブ

『君たちはどう生きるか』

君たちはどう生きるか
2023年 日本(東宝)
英語タイトル:The Boy and the Heron
フォーラム福島にて
原作/監督/脚本:宮崎駿
プロデューサー:鈴木敏夫
制作:スタジオジブリ、星野康二、宮崎吾郎、中島清文
音楽:久石譲
主題歌:米津玄師
124分
ジブリサイト
https://www.ghibli.jp/works/kimitachi/

同名タイトルで、1937年(昭和12年)に刊行された吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』は、この映画の原作ではないが、作中で主人公に影響を与える本として、大事な役割を果たしている。

どうしてこの作品が、事前の広報活動を行わず、「ネタバレ禁止」だったのかはわからない。でも、少なくても私自身は、この作品から、「先入観をなるべく持たずにこの作品を観て、自分で考えて判断してほしい」という監督からのメッセージを、受けとった気がした。

この作品は、宮崎監督の集大成とも言える要素がたくさんあり、個性的なキャラクターや独特な世界感、思いがけない方向へ眼を向けざる得ない動きなど、いつも通りにおもしろい。ただ、今までの大作と違って、少人数の精鋭スタッフで、丁寧に創られている。

おそらく一番大切な部分は、完全に抽象化されていて、変に考察されたり、裏読みされることから、逃げ続けているんじゃないか?

…などとなにも情報がないまま、適当に書いておいたら、その後放映されたNHKのドキュメンタリーで、この作品は、高畑勲監督や鈴木敏夫プロデューサーなどとの極めて個人的な関係を描いたと、宮崎監督自体が告白。そうだったかぁ。確かに、パーソナルな匂いを感じはしたけれど、まさかそこまで身近なこととは!

そんな超個人的な要素を盛り込んだ結果、逆に普遍的な要素を持つ映画ができあがってしまう。そういうところが、宮崎監督の非凡でおそろしいところ。

『小説家の映画』

小説家の映画

2022年韓国
英語タイトル:The novelist’s film
フォーラム福島にて
監督/脚本/製作/撮影/編集/音楽:ホン・サンス
出演:イ・ヘヨン、キム・ミニ、ソ・ヨンファ、パク・ミソ
上映時間:92分
『小説家の映画』公式サイト

ひとりの中年女性が、小さな書店に入ろうとするが、店内ではなにかトラブル発生中。店の奥から、電話で誰かとやりあう声が聞えてくる。

どうやらこの女性は、この店の客ではなく、店主の知り合いらしい。女性は、外で待っているからと、店内の人物に身振り手振りで伝えると、一度店の外に出た。

実際にありそうでなさそうな、こんな情景からはじまるこの映画は、現代なのにモノクロ映像で、登場人物のとりとめないお喋りとともにはじまる。

私たち自身のふだんの会話も、実はこうなのかもしれない。知り合い同士なら、暗黙の了解ばかりで、側で他人がそれを聞いていても、はじめはさっぱり意味がわからない。

でも聞き続けていると、そこから具体的にヒントとなる単語や言葉のニュアンスをだんだんと嗅ぎ分けられるようになり、話の内容を理解できるように。

この映画も、はじめは雲をつかむような感覚でも、やがて店内から出てきた女性店主とこの女性との会話を聞くうちに、事情が少しずつ飲み込めててくる。

女性は、有名作家だというジュニ。店主は、そのジュニの後輩だが、しばらく疎遠だったらしく、ふたりは久しぶりに会った。

この映画において、いくつかの出会いと無数の会話は、身近でやりとりされているかのごとくリアル。主人公ジュニと、相手との心の距離や関係性が、おそろしいほどよく伝わってきた。

その一方で、実際の人間関係同様に、本心からの言葉かどうか、読み取れない場面もあるから、もしかすると、率直で物怖じしないジュニより、観ている私たちの方が、少しハラハラするかもしれない。

やがて、地域で有名な巨大公園施設に、車で連れてこられたジュニは、そこで昔因縁のあった映画監督夫妻と偶然出会う。しばらく社交辞令的に会話をするが、だんだん我慢できなくなってきたジュニは、かつて嫌な想いをさせられたことを蒸し返し、この監督夫妻にぶつける。そしてそれを、監督夫妻は見事にスルー。ウーム、どの国でも同じだ、これぞ「業界」だぁ…(怖いよ~)

悪い空気になったまま、公園を3人で歩いていると、最近仕事をセーブしているという映画女優ギルスを、映画監督が目敏く見つけて声をかける。実はこのギルス、ジュニの小説の熱心な読者で、ジュニと会えたことを無邪気に喜ぶ。

しかし映画監督が、ギルスに不躾に復帰を促したことから、ジュニが激怒。監督夫妻を追い返してから、ギルスとジュニは食事して意気投合。ギルスと陶芸家であるその夫を題材にした映像作品を、一緒に作ることになるという流れ。

才能ある人が仕事を辞めると、まわりはつい、才能がもったいないとか、早く仕事を再開しろとか、余計なことを言いがち。でもそのことを決めるまで、どれだけ本人が悩んだか、なにを一番に大切にしたいと思ったかは、本人以外誰も知る由がない。

だからジュニが、監督に怒った気持ちもよくわかるが、そこまで怒ったのは、ジュニ自身が、筆を折ろうとしていることとつながっている。

こうやってストーリーを書き連ねれば、まるで普通の映画のようだが、この作品は、観客がのぞき見的に「一番知りたいこと」を、すべて迂回してひとつも見せてくれない。おそらく、それを見せないことで、もっと本質の部分を伝えようとしている。

ジュニの初監督映像作品を評して、撮影を手伝ったギルスの甥が言ったこの言葉が、そっくりそのまま、この映画全体の印象と重なる。

「変わった映画だよ。でもある種の感性を持つ人たちは、たまらなく好きなんじゃないかな」

会話のみで進行する展開や、映像が突然カラーになるシーンは、ホン・サンス監督のいつもの手段らしい。でも私にとっては、それらすべてが魅力的で、忘れられない経験となった。

コロナの時代以降、直接人に会わなくても、リモートでいいやと思いはじめていたが、実際に会って話すと、やはり特別な科学反応が起こるのかもしれない。その時に生じるいい雰囲気も、いやな空気も、全部ひっくるめて。

そう思わせてくれるだけ、この映画は、人と人が直接係わる瞬間を、驚くほど緻密に描いた作品。

『友だちのうちはどこ?』

友だちのうちはどこ?

英語原題:Where is the Friend’s House?
1987年イラン
BSプレミアムにて
監督/脚本:アッバス・キアロスタミ
出演:ババク・アハマッド・プール他

後にイラン映画の巨匠となるアッバス・キアロスタミの名を、一躍世界に知らしめた作品。日本での配給は、ちょうどミニシアターの全盛期の1993年で、あらゆる文化圏の様々な種類の作品が観られる恵まれた時代だった。

この「友だちのうちはどこ?」は、そんな時代の象徴ともいえる傑作のひとつ。

魅惑的なタイトル通り、まだ幼い少年アハマッドが、まちがえて学校から持ってきてしまったノートを友だちに返そうと、奮闘する姿を描く。偶然テレビをつけたらBSプレミアムでやっていて、20年ぶり(?)2度目の鑑賞となった。

明日学校に行けば会えるのに、なぜ必死にノートを返そうとするかというと、その友だちが、宿題を忘れたり、ノートにちゃんと書いてこなかったりすることが続いて、次に宿題を忘れたら退学と先生から言い渡されているため。

優しいアハマッドは、友だちのそんな状況に同情。親の言いつけにそむいてまで、イラン北部の村コケールから、友だちの住む丘ひとつ越えた隣村ボテシュまで、ひとりで出かけていく。村のどこにあるのか、見当すらつかない友だちの家を探すために。

手がかりが少ないうえに、百戦錬磨の大人たちの前では、幼いアハマッドはあまりにも無力。イランの古い封建制度そのもののような祖父をはじめとした「大人の不条理」に、アハマッドが振り回される姿を観ていると、こっちまでハラハラしてしまう。

でも、実際の世の中同様、不親切な大人ばかりではない。訪ねた家のおじいさんが、友だちの家かもしれない場所まで道案内してくれることになる。

窓やドアを作る職人だったおじいさんは、村のあちこちに残る伝統的な飾り窓や青く美しい木製ドアが、無骨な鉄製ドアにどんどん変えられてしまうことを嘆く。息子夫婦が、この村を出て、便利な都会に移ってしまったことも同様に。

アハマッドが、おじいさんのゆっくりすぎる歩みにつきあって歩く道すがら、壁に投影される飾り窓の明かりや風情あるドアのたたずまい、坂が続く村の白く複雑な地形は確かに美しい。でも映画を通して少し覗いただけでも、イランの小さな村に暮らす不自由さの方も、十分に伝わってきた。たとえば、アハマッドのお母さんが、シーツを洗って干す様子なんて、本当に大変そうだもの。

心温まる結末も含め、アハマッドの優しさに貫かれながら、子供らしい行動のせいで生じるいざこざとつきあっているうちに、そこからやがてイランの地方が抱える文化的な問題も透けて見えてくる。こういうところが、キアロスタミ監督の怖ろしさ。

未だにイランは、映画に検閲の入る国。この作品も子供を主人公にすることで、批判的な面をカモフラージュしたのだそうだ。そんな不自由な状況でも、傑作映画が生まれ続けるイランという国の文化的な底力に、圧倒させられもする。

個人的に、それまで遠くて縁がなかったイランという国が、ぐっと身近に感じられるきっかけとなった作品。

『アンジェリカの微笑み』

アンジェリカの微笑み

原題 O ESTRANHO CASO DE ANGELICA
監督・脚本 マノエル・ド・オリヴェイラ
2010年
ポルトガル、スペイン、フランス、ブラジル
97分
公式ホームページ

オリヴェイラ監督101歳、「晩年」の作品。でもこれ、最後の作品じゃなく、最後から二番目の作品ですからね。そして、下手をすると若い監督の作品より、はるかに瑞々しい。感性の若さというのは、実年齢ではなく、持って生まれたものなのだとよくわかります。

若く、神経質そうな写真家の主人公が、夜中にいきなり「亡くなった娘の写真を撮ってほしい」と、屋敷に連れて行かれます。ユダヤ教徒の彼ですが、キリスト教徒の若いお嬢さんの死を、痛ましく思う気持ちには変わりありません。

青い椅子に横たわる死者は、まるで眠っているかのよう。ファインダーの中で、死者はふいに蘇り、主人公に親しみ深い笑顔を見せます。それ以来主人公は、この「アンジェリカ」という娘のことが、ひとときも忘れられなくなり…。

夢か現か、生者の世界か死者の世界か。そのあわいにあるような、あまりに美しく、繊細な作品。

幻想の中(いや、実はこちらも現実なのかも…)で、恋人と空を飛ぶ主人公の姿は、子供の頃父の書斎で観たシャガールの画集の一枚の絵を思い出させます。あの独特な雰囲気に、映像でここまで迫れるとは思ってませんでした。しかもモノクロームで。

生きることが、あまり上手でない人の中には、生きているうちから、あちらの世界に半分足を踏み入れた感じの人がたまにいて、生きることにしがみつかない彼らは、やはり思いのほか早く、生を簡単に手放してしまう気がします。

監督の他の作品の多くからは、生きることの喜びが感じられていたので、この作品では死が強く意識されていることに、少しさみしい気持ちにもなりました。でもそれこそが、理想なのかもしれませんね。死へといつのまにか、確実に近づいていく。

映画を撮る技術やスタイルこそ、継承することができても、作家の持つ感性や美意識の方は、本人が亡くなると同時に消えてしまう。過去の作品を観れば、その中に残されているとしても。

亡くなった106歳は大往生でしょうが、ファンとしては、二度と手に入らないものを手放したさみしさで、胸にぽっかり穴があいたままです。

『悪童日記』

悪童日記

2013年 ドイツ・ハンガリー合作
原題:LE GRAND CAHIER
監督:ヤーノシュ・サース/原作:アゴタ・クリストフ「悪童日記
出演:アンドラース・ジェーマント、ラースロー・シェーマント、ピロショカ・モナムール
フォーラム福島にて

原作は、五十歳を過ぎてからフランス文壇にデビューした亡命ハンガリー人女流作家アゴタ・クリストフのデビュー作。乾いた簡潔な文章、美しい双子、田舎での両親と離れての過酷な生活、何もかもが狂った戦争末期の社会。読者はそれを、双子の書いた「真実しか記さない」はずの日記として読む。

そう謳ってあっても、そこには虚実がちりばめられ、読者はどこかで、日記の全てが真実という訳ではないと薄々感じながら読み進める。そもそもこの本は、作者が移住したフランスの言語で書かれ、たぶんあの国だなぁと想像はできるけど、舞台となった国も戦争の敵国の名も、どこにも記されていない。

とはいえ、映像にすれば、話す言葉や衣装で、それはだいたいわかる。国はハンガリー、支配しているのはナチスドイツ、解放軍はソ連。

あらゆる苦難を潜り抜けただろうアゴタ・クリフトフに比べると、この監督の描く世界は、少しナイーブで感傷的。しかしそのお蔭で、カルト映画になることから逃れ、残酷だけど美しく、奥深い作品に仕上がっている。

親の言いつけを守り、聖書に読み書きを学びながら、日記を綴る双子には、いびつでもはっきりした倫理観がある。しかし彼らが預けられた名うての悪女である祖母「魔女」が、それほどの悪人には思えなくなってくるほど、戦時下の「普通の社会」は狂気に満ちていた。その中で彼らの倫理観を発揮すれば、結末はたちまち残酷になる。

戦争中なら、このくらいのことは、実際にあったかもしれない。原作と違い映画の方は、戦時下にあったかもしれない現実と感じられ、観終わった後気持ちが塞いだ。

何より印象深いこの双子。美少年だからというより、この年齢で、こんな目ができるのがすごい。地獄の縁を覗いたことのある眼差し。それでいて、瞳の奥に秘めた感受性や優しさも醸し出され、忘れ得ぬ魅力に満ちている。

『ヴァージニア』

ヴァージニア

2011年/アメリカ/89分
監督・脚本・製作:フランシス・フォード・コッポラ
出演:ヴァル・キルマー、エル・ファリング
アップリンクにて

トム・ウェイツのナレーションではじまるこの映画の舞台は、塔の八面についた時計が全部違う時刻を刻むいわく因縁のある田舎町。

本屋もないその町に、自分の本を売りに来たのは、アル中の三流オカルト作家のホール・ボルティア。娘を事故で亡くして以来、思うように作品が書けずに生活も困窮。旅先に来てまで、妻から出版社に前借りをするよう強要されている。

町では、数日前に殺人事件が起きていた。身元不明の少女が胸に杭を打たれて殺されるという事件。まるでヴァンパイアを封印する儀式のように。その殺人事件を元に、一緒に小説を書かないかと、ボルティアに持ちかけてきたのが、小説家になる野心を持つ得体の知れない保安官。

その晩、夢に導かれるようにV.(ヴィー)と名乗る少女に出会ったボルティアは、チカリングホテルという場所で、かつて牧師が子どもたちを斬殺する事件があったことを知る。そして幻のように現れた敬愛するエドガー・アラン・ポーに導かれ、ふたつの事件を元に人生をかけた傑作を書こうと思い立つのだが……。

やがて話は、夢か現実か、さらには小説の中の話か、よくわからなくなりつつも、ポーの道案内でなんとか前に進んでいく。徹底した美意識に彩られた映像やディテールの積みかさねが、とにかく美しい。困ったな…大好きです。

ゴシック・ミステリーと銘打たれているのも納得だけれども、この作品の本質は、ボルティアの心の中の罪悪感にある。作品はやがて、今のような三流オカルトではなく、もっと良い作品を書きたいと思い始めたボルティアの作品創作の手順と重なってくる。ポーは殺人の顛末を教える謎解きの名手としてだけではなく、哀切と恐怖に彩られたミステリーや詩作の文学史上に輝く星として、作家・ボルティアの作品も導き出す。ここからがおもしろかった。

妻を失くして以来、その妻の面影を、名前を変えて繰り返し作品に登場させたというポー。だからこそ、愛する者を失ったときの心の傷にも敏感なのかもしれない。事件の謎解きが進むにつれ、作品を完成させるために踏み込むべきは、娘を亡くした事件のことだと、ポーはボルティアに説く。

謎の少女ヴィーや、川向うにたむろする不良集団のリーダーでボードレールを暗唱している青年のキャラクターや化粧、ファッションから見える巨匠コッポラの美意識の高さは沸点レベル。ただ、個人的に一番笑ったのは、ボルティアが作品のストーリーを書き出すときに、「霧の湖」から逃れられなくなり、何を書いても霧の湖の話になってどんどん酒量が増えるシーン。この作品と、小説を書くという行為は、切り離して考えられない。

ミステリーの形態なのに、わずかなユーモア以外は、逃れられない悲しみへの哀切に満ちている。それは、ミステリー小説の祖であると同時に、「死と憂鬱の美学」に彩られた完璧な詩を無数に作ったポーへのオマージュ。

ポー自身も、この映画の美意識は、きっと好きなんじゃないかなと想像した。

『ミッドナイト・イン・パリ』

ミッドナイト・イン・パリ

原題:Midnight in Paris
製作年:2011年
スペイン・アメリカ合作
監督/脚本:ウッディ・アレン
出演:キャシー・ベイツ、エイドリアン・ブロディ

「ウディ・アレンの映画? ああ、あの金曜日の夜に観に行くようなやつね」と、かつて知人から言われ、ちょっとムッとした記憶があります。でも確かにこの『ミッド・ナイト・イン・パリ』は、まさに金曜日の夜にカップルで観るのが似合う映画。ただ、軽いタッチではあるけれど、実際に軽い訳ではなく、マイルドを装いつつなかなか深みもあり。

主人公は作家になることを夢見ながら、ハリウッドで二流作品の脚本を書いているそこそこ実力のある脚本家。婚約者とその家族と共にパリに来て、パリに住みながら小説を書けたらと願うようになります。実は以前も、パリに住みたいと思っていたのですが、しがらみを乗り越えられず実現できないままでした。

どう思いますか? こういう男性。女性の中には、「パリに住んで小説書くなんて、どんだけロマンティストなの? 冗談じゃない、ちゃんと稼いできてちょうだい!」と、主人公の婚約者と同様に思う方もいるだろうけれど、彼の夢が実現不可能とも言い切れません。そもそもこの主人公は、夢ばかり口にして、現実を見られないダメ男とは違います。生活を保つための仕事は最小限に抑えて、小説を書く時間を作ろうと計画しているだけ。できないことではないのでは? もちろん派手な生活は難しくなりますが。「小説書くぞ」と言うだけではなく、忙しい仕事の間を縫ってちゃんと作品仕上げているし。そのあたりの設定が細かい。少なくても一度小説家を目指したことのある人なら、おやおや、この人は口だけじゃなく、なかなか本気じゃないかと思うはずです。

でも彼の婚約者と共和党支持者でアメリカ万歳なその両親は、ハリウッドの脚本書きでそこそこ稼げるキャラクターとしてのみ、彼を見ています。彼の方も、1920年代(もう少し後?)のパリに行ってみたいと願うばかりの回顧主義者。どっちもどっちの両極端で、ふたりの溝は深まるばかり。

そんな夜、主人公は酔いを醒ますために歩いていたパリの路地裏で、ふいにタイムスリップして見知らぬ男たちの乗る車へ同乗させられます。連れて行かれた先は、当時の芸術家たちが集まる社交場。

その日から毎晩、この異空間にある芸術家街に、彼は出かけるようになりますが、フィッツジェラルドの妻・ゼルダに「小説書いている」と言っちゃうし、ヘミングウェイに「男らしくない、表に出ろ」って挑発されるし、そのヘミングウェイの紹介で著述家・美術収集家として著名なガートルード・スタインに小説みてもらうことになっちゃうし、彼女の家ではピカソが絵を描いているしと、まるで夢のような出来事ばかりが次々と…。

でもこれが、現代社会とアメリカに適応できず、パリや昔ばかりに憧れていた彼が、しっかり現実と向き合うためのきっかけになります。

やがて彼はふとしたきっかけで、時代をさらに遡ってベル・エポックの時代にまでタイムスリップするのですが、過去に行くにつれて迎えてくれる人々の心の開き方がどんどん広くなるようで、涙が出そうになりました。ただ、主人公じゃない人だけど、ルネサンス期まで行ってしまうのは、さすがに行き過ぎですよ。かわいそう。現代人じゃ、とても対応できやしない。

巨匠たちが、案外普通の人なのもいい。あのピカソやゴーギャンまでが、揃いも揃ってかなりの俗物です。さすがにサルバドール・ダリ、マン・レイ、ルイス・ブニュエルの一派は、「ちゃんと変人」でしたが。それにしてもこの3人、主人公がタイムスリップしてきたと言っても、誰ひとり驚きません。ううむ、さすがシュルレアリスト…(映画で観た時はそうだと思ったんですが、後で再度DVDで観たら、主人公が「修辞の問題じゃなくて」ってちゃんと突っ込んでますね。劇場版ではこの台詞がカットされていたのか、私がぼんやりしていて見落としたのか。2022年追記)。

こういうディテールの洒落っ気や映画としての骨格の確かさが、設定の滅茶苦茶さに美しい魔法をかけます。

毎日の生活の中で、人は自分に枷を設けて、すぐ動けなくなってしまう。そこから抜け出すには、きっと何か刺激が必要なのでしょう。なるほど、その起爆装置の舞台として、花の都パリは最適。私自身も、この映画自体が起爆剤になって、一歩前に踏み出せそうな気がしてきました。

若かりし頃の切れ味鋭いコメディも観たくなりますが、ウディの「ひねくれた人が心おきなく楽しめるおとぎ話」の世界は、まだまだ健在。観ている間中、そして観終わった後も、しばらく愉しい気持ちが続きました。ただそれと同時に、なぜかとてもせつなくなるのですけどね。

『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』

Pina /ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち

2011年ドイツ
監督/脚本:ヴィム・ベンダース
出演:ピナ・バウシュ、ヴッパタール舞踏団
東宝シネマズ新宿にて

昨晩、我慢できずに、ヴィム・ヴェンダース監督の3D映画『Pina』の最終回に飛び込んで鑑賞。

映画に詳しく、いつもなら鋭い批評をする論客たちが、揃いも揃って「素晴らしかった」のひと言しか残さない理由がよくわかりました。

かつて心の中に、絶望しか生まれなかった時期、埼玉までピナ・バウシュのダンスを観に行ったことを思い出します。そして本当にこの世に、誰かを助けてしまうダンスというものが、あるんだと知りました。

そのピナのダンスの映像化となれば、宝の箱を壊されてしまいそうでいやだ、と思うところですが、監督がヴェンダースだと聞いて不安は消失。

この人ならきっと、自分のためではなく、ピナのための映像を作ってくれる。映画の意匠ではなく、ダンスや音楽そのものに心を砕いてくれるに違いない。

その予感は、当っていました。むしろピナという対象への愛が深すぎて、映像からヴェンダース色が消えてしまったほど。でも音と選曲センスの方に、ヴェンダースらしさは残っていました。

東日本大震災のすぐ後、この映画を携えて、真っ先に被災地まで来たというヴェンダース。勤め先をやめてフリーになり、東京でひとりでがんばろうと決意しながら、不安定だった私の甘い心も、この映画は救ってくれました。だいぶ無理をしたけれど、観に来てよかった。

『ブロンド少女は過激に美しく』

2009年 ポルトガル・フランス・スペイン合作
原題: Singularidades de Uma Rapariga Loura
監督・脚本:マノエル・デ・オリヴェイラ
原作:エッサ・デ・ケイロス「ある金髪女の奇行」
撮影:サビーヌ・フランス
出演:リカルド・テレバ、カタリナ・ヴァレンシュタイン 他
飯田橋ギンレイにて

長距離バスに乗った若い男は、隣合わせた見知らぬ女性に、自分の身に降りかかった体験を語り出す。「妻にも友にも言えないような話は、見知らぬ人に話すべし」そんな格言の言葉に従って。

江戸川乱歩の傑作短編『押絵と旅する男』の冒頭のような滑り出しでも、別に不思議なことが語られるわけではない。ただ、ときにリアリズムは、ファンタジー以上に奇妙な世界を見せる。

青年が語りはじめたのは、叔父の店の二階で経理の仕事をする自分と、その窓から見える向かい側の建物の二階に住む女性との運命の出会い。それは強い情熱に突き動かされる若き純愛の物語。しかし、どうも、なにかがおかしいぞ?

少女が窓際で仰ぐ扇のシノワズリーが、少女の美しさと神秘性を際立たせる。ただその扇が遠く離れた東洋のデザインであるように、少女の存在はミステリアスで訳がわからない。

この映像や音の質は、監督のオリジナリティなのか、それともポルトガルという土地が生み出す街の色気なのか、彼の地に行ったことのない私にはわからない。ただ、石畳の続く街並み、時を刻む時計台の鐘の音、そのどれもが、見事な映画のセンスを運んでくる。

このふたりの結婚を、かたくなに青年の叔父は認めないが、その理由はなんとなく私たちにもわかる。ふたりは美しい風貌以外は、何一つ接点がない。上流の出なのだろうが、今は金銭的にあまり恵まれていない女性やその母は、文学や芸術のサロンに出入りしている。でも、ここで求められる教養や会話のウィットを、青年は絶望的に持ち合わせていないのだし。

それでも、数々の障害に負けず、ふたりの恋は続く。何より、青年の女性への献身は本物だ。結婚を反対され、叔父に解雇されて失業しても、結婚をあきらめず、彼女と結婚するためなら、遠い土地でのつらい仕事を成し遂げてひと財産を作る。それを突然失ってもなお、再チャレンジを厭わない。叔父がその姿を見て、気持ちを変えるのも当然だ。

しかし長距離バスの中で、隣の女性に何度も青年が嘆いていたように、青年の回想は、やがてとんでもない結末で幕を下ろす。

監督であるオリヴェイラ監督は、この映画の撮影時に百歳を迎え、いまだ現役。なんでしょう、このセンス、抑えに抑えた官能。最後に観客を、感動から引きずり戻すサディストぶり。映画の才能や瑞々しさ、そして作品作りへの真摯さは、年齢とは何の関係もないとよくわかる。

リアリズムの手法で描きながら、カタリとそこからはずれたシーンがあり、そのためかえって痛みがヒリヒリと伝わってきた。

古めかしいフォルムを持ちながらも、その手法は過激なほど前衛的。観終わった後、この時代にこんな映画を、同時代の作品として観られることのうれしさに、思わずため息をついた。

『ウディ・アレンの夢と犯罪』

ウディ・アレンの夢と犯罪

原題 CASSANDRA’S DREAM
製作年/国 2007年/英
監督:ウディ・アレン
出演:ユアン・マクレガー、コリン・ファレル、トム・ウィルキンソン
恵比寿ガーデンシネマにて

ウディ・アレンのシリアス映画のひとつ。

若い兄弟には、風采のあがらない父と違い、世界をまたにかけて活躍する大金持ちの伯父がいる。その伯父に影響を受けたか、兄はあぶなっかしい投資話にうつつを抜かし、弟はギャンブルに狂う。ついに兄の方は、魅力的だけど多情な舞台女優をつなぎとめるために見栄を張り、父の会社の金に手をつける。弟の方も、大もうけしたポーカーにはまって、ついに払いきれないようなあぶない借金をしてしまう。

ふたりは、大金持ちの伯父に頼み、助けてもらうことになったのだが、伯父はそれと引き換えに、信じられないことを兄弟に頼んでくる。

こんな究極の選択ではないにしても、借金は人格を変える。目の前の返済をなんとかするためなら、普段のその人の性格では信じられないことまでしてしまう。私たちの身の回りにも、それはよくある話。

完全犯罪のはずが発覚するのは、神が罰を与えたのではなく、罪悪感や犯罪がばれる恐怖のため、犯罪者自身が余計なことをするからだとよく言われる。そう考えれば、この兄弟がこういう結末に見舞われるのは、彼らが人間的な感情を持っていたせい。

決して悪人ではない兄弟が、踏み込んではいけなかった一線。そこをこの映画は、まるで昔のハリウッド映画のように、丁寧に積み重ねて話を進めていくが、センス的に古くならないのはさすが。でも、ウディ・アレンのシリアス映画は、知識や教養がありすぎて、頑なで重苦しい。でもそこがまた、たまらなく魅力的。

この結末は、ひどい悲劇だけれども、ただ兄弟の愛の物語としてとらえれば、絆が保たれたという点で救われている。困ったことに私は、この結末にほっとしてしまった。

金や名誉に振りまわされる人々の弱い心と、繊細な登場人物の心のやりとりを描いた作品で、なんていうことはない、見せ方が違うだけで、人気のあるウディ・アレンのコメディタッチ映画と、描きたいことはまるで同じ。

ところで、恵比寿のガーデンシネマ自体の感想を書いてあるウェブサイトがあって、「古くてイヤ」「いまどき予約制じゃないなんて信じられない」「飲食禁止の映画館なんてあるの?」とあってなんだか笑ってしまった。シネマコンプレックスでしか映画を観ないタイプの人には、古かろうか新しかろうが、自分の感覚にあったものを頑固につらぬくこのウディ・アレンの映画が、あまり必要がないだろうことは確か。