『BLUE ブルー』

BLUE ブルー

1993年/イギリス・日本
75分
監督: デレク・ジャーマン
イメージ・フォーラムにて

映画と呼ぶにはどこかいびつで美しく、アートと呼ぶには映画であり続けたイギリスの映画監督デレク・ジャーマンの遺作。

1994年に、今はもうないシネ・ヴィヴァン六本木でこの作品を観てから、8年ぶり2度目の鑑賞となる。音が重要な要素の作品だけあって、シネ・ヴィヴァン六本木って素晴らしい音の箱だったんだなぁと、今更ながら気づかされた。イメージフォーラムの音響がどうこうということではなく、重低音が響くシネコンの音響とはまた違うという意味で。

映画がはじまると、スクリーン一面に、ただ「クラインブルー」だけが広がる。そしてそれがそのまま、終わりまでずっとつづく。

だから映像は、ないとも言えるのだけれども、動かないはずの青いスクリーンが、映写の加減で少し動くように感じられた。その青の背後でつづく過酷な内容の朗読と物音、そしてブライアン・イーノも参加した印象的な音楽が交じりあうにつれ、鑑賞者の錯覚もあるのか、瞬間ごとに青の印象も変わるように感じる。

今でもはっきり記憶しているのは、8年前の鑑賞の際には一面の青が美しく、画質もきれいな状態だったこと。現在では画面にかなりの細かい傷がついた。

絶え間なくあらわれる小さく黒い傷が、前よりもずっと目をチカチカとさせる。そしてそのことが、時の流れを強く感じさせた。

この作品の中でジャーマンは、「僕らの仕事は忘れ去られる」と言った。しかし彼がこの世を去ってしまってからも、作品の方は、傷がついたことで時の流れさえはらみ、創り手を失ってもなお進歩をつづける。まだまだ忘れ去られることはない。少なくても私は、これから何度でも、この作品を観たいと思うだろう。

内容の方は、「エイズという病を、社会現象としてではなく、内側から描いた作品」と説明されることが多い。本当にそうか、私には判断できないけれど、当時、まだろくな治療法も発見されてておらず、社会的な差別と戦っている病だったことを考えると、これだけこの映画が「個人的」であることは、やはり特別なことにちがいない。

エイズに限らず、死に至る病を扱った作品に、まわりの人間模様や本人の葛藤、治療の様子というものに頼らずに、こうやって病自体を描いた作品は、そう多くないんじゃないだろうか。

月日は流れて、当時は確実に死へ導かれたエイズも、発症を遅らせたり、治療ができるようになった。

この監督はもともと、自分にも他人にも、特に社会的な「権威」に対して、まったく容赦がない。包み隠さず、残酷なまま、私たちはそれを受取る。

だから言葉と音だけとはいえ、闘病のすさまじさ、マノノリティー側のやや自虐的な受けとめ方、慈善事業特有の偽善的残酷さ、そして絶望を通り越した不思議な明るささえ、ポエティックな部分も含めて、次々に胸へ突き刺さる。

そういう内容でも、ここで朗読される言葉は美しい。それも中身を伴った美しさで、ただセンチメンタルなだけではない。いや、もしかしたら、残酷な最期に向きあっているから、許される美しさなのかもしれない。

月日が流れるごとに、傷を伴う一面の青。今でもときどき耳にすることのある印象的な音楽。ちりばめられた効果音。色の名前に満ちた偽りのないテキスト。

観ているうちに、それらすべてが絡みあい、一気に何かでつらぬかれた気分になる。

私にとってはきっと、いつまでも忘れられない作品のひとつ。

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