『エスター・カーン』

エスター・カーン

アーサー・シモンズ 著
工藤好美 訳
平凡社

十九世紀末から二十世紀のはじめに生き、ヴェルレーヌやマラルメの翻訳者にして、ジェイムス・ジョイス「ダブリン市民」の出版者でもあるイギリスの作家アーサー・シモンズの短編集『心の冒険』。このなかにおさめられている「エスター・カーン」が、最近デプレシャン監督によって映画化されたこともあり、あらためて八篇のなかから五編が選ばれ、「エスター・カーン」を表題にして新書化された。

読みおわって本を閉じると、誰が言ったのかは忘れたけれども、「その時代の文学とは、新しく創られるものではなく、かつて書かれたものの中から、時代が発見するもの」といったような言葉が、ふいに思い出される。それほどにこの小説は、現代にリアリティをもって迫るものと思えた。

作品のひとつひとつは、いずれも納得がいくように人生を送ろうとする主人公が、試行錯誤を繰りかえす物語。

彼らの多くは、「不幸」と思われる状態に着地するのに、それしか方法はなかったと納得できるから不思議。それほど主人公たちは、自分の「本当に求めているもの」を、確実に見つけて迷わずに行動する。不幸とか幸福とか、そんな抽象的な言葉ではとてもあらわせないほど、彼らの取る行動や考え方は具体的で明確。遠い未来を思い描いたり、過去を振り返るのではなく、その瞬間を、ものすごい密度でただ生きる。

最初の「生の序曲」は、作者の自伝的作品。後半で母について書かれた部分が、彼の作品の主人公の存在につながるように思えた。

「母にとっては過去も、現在も、未来も、それはただ一つの存在のそれぞれの瞬間にすぎず、生が彼女のすべてであり、生は滅すべからずものであった。彼女自身の個人的な生命は、眠っている間でさえ、しばらくも休むことがないほど溌剌としていた」

要領が悪くて頑固な女優エスター・カーンも、最後の瞬間まで自分が求めた作品を描こうと試みた画家ピーター・ウェイデリンも、四十歳で初めて愛した自分の妻を「心の都」へ招待して失敗したダニエル・ロゼラも、「自分を愛するよりも深く神を愛する」ために悪魔のように公然と神を冒涜した漁師シーワード・ラックランドさえも、読み進めている瞬間には、いきいきと目の前に立ちあがってくる。

彼らの生き方は、ことごとくまわりとの調和を欠いている。だから不幸という状態に陥るのだろうけれども、たとえ誰がみても幸福という状態でも、納得がいかないこともあるし、不幸だと同情される状態でも、すべての辻褄があっている場合もある。まわりにいる人たちには、彼らの行動は突飛で理解しがたいだろうけれども、読みすすめている読者からすれば、その行動が止むにやまれるものだとわかる。

本を読み終えた時、前書きのデプレシャン監督による指摘に、深く共感した。このアーサー・シモンズという作者は、自分の考え方にあわせて登場人物たちを生み出すのではなく、登場人物たちの生き方を尊重して、彼らの内面の言葉へ耳を傾けながら小説を書いたのだということ。

それぞれの作品の主人公たちは、まちがいなく、納得した生き方を自らの手でしっかりとつかんだのだ。通常の野心や目的とは、かなり違った危険な「心の冒険」によって。

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