『作家が語る私と日本語(高橋源一郎講演会)』

作家が語る私と日本語(高橋源一郎講演会)

 世界の「物語化」を避けるには?

《随分前になりますが、朝日カルチャーセンターであった高橋源一郎氏の講演会へ行ってきました。字数がないので、覚書きで。後半、文学部の一般教養の授業みたいになりますが、この基本を保ち続けることは、確かに難しい…》

講演テーマ…戦争と小説と日本語
および日本近代文学と「百年の孤独」について

(日にち)2003年3月24日

(場所) 住友ビル43階33教室

☆戦争報道について

○日本のイラク戦争の報道
日本のニュースやワイドショーの論調は、いきなり花火があがってしまう。新聞などでも、事実から切り離された目に入りやすい言葉が宙をさ迷っている。あとはどうでもいい情報(「フセイン金髪好き!」など。スポニチの「フセイン宇宙人と交信!」までいけば見事。まあ確かに…)。

視聴者は、自分で判断して考えるための「情報」が欲しいのに、ブラウン管のむこうには、誰かの「意見」ばかりが飛び交っている。

○突然ですが、今なぜファンタジーが流行るのか。
・ファンタジーとは?
夢+物語
現実とは他に別の世界があって、主人公がそこへ行って、場合によってはまた戻ってくる。
例)ハリー・ポッター、ロード・オブ・ザ・リング、千と千尋の神隠し

現在のイラク戦争で、フセインやラムズフェルトが言う「悪の枢軸」というのは、よく考えればファンタジー。

目の前にある映像は事実。ただそれの用途が違っている。ハリーポッターでのほうきのように。

○チョムスキーの話し方
くどいほど、「この問題について集められた情報の範囲では、こういう結論が導かれる」と繰り返す。「私が知っているのはこれだけだ。あとはわかりません」というスタンス。戦争について語るには、本当はこれが一番必要。
←現実をファンタジーすることへの唯一の対抗策。

☆物語化(ファンタジー化)を避けるには?

○物語の鉄則
主人公は物語の中にいると気づいてはならない。

○映画の場合はどうやって「物語化」を逃れた?
・ゴダール『きちがいピエロ』
途中で何度も、ピエロがアンヌに言う。
「これってお話っぽくない?」
↑自分が物語の中にいると気づいている。それを口に出してしまうことで、物語化を逃れた。

○小説は物語に弱い?
日本近代文学の起源は、ガルシア・マルケス『百年の孤独』に似ている。
『百年…』にでてくる村は、はじめは物の「名前」がほとんどなかった。
それに対して、日本近代文学は、まず言葉を「変えて」みた。しかし変えてはみたものの、何を書いたらいいかわからない。

○ヨーロッパの「言葉+価値観」を直輸入。
「青春」「恋愛」「キリスト教」など。
なかでも究極の輸入品は「私」(このあたりは有名)。
…強い意味のある言葉として使ったのは明治20年代後半。
『蒲団』(田山花袋)

○この頃は「私」でさえ、人工的な言葉だった。そのことを念頭において、言葉には配慮し続けなくてはならない。

《最後、どうまとめるんだろうと思っていましたが、まとめはなく、鶴見俊輔氏の訳した詩の朗読で〆ました。そうやって物語化を避けたのか…。》

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