『横浜トリエンナーレ2014』

「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」

2014年8月1日(金)~11月3日(月・祝)
横浜美術館、新港ピア
横浜トリエンナーレ2014公式ホームページ

東京在住だった頃は、ふらりと出かけていた横浜トリエンナーレに、今回は福島から新幹線に乗って参戦(?)。体力には自信がなく、日帰りはちょっときつい…。

気になった作品を、無責任にいくつか。感想も無責任に。

会場に入る前、駅ビルでギムホンソックの『クマのような構造物』に遭遇。クマとも黒いごみ袋ともつかない姿に目は釘づけ。タイトルのごとく、この作品が本当に「クマと構造物」のど真ん中に位置しているのがすごい。

まずは横浜美術館の方へ。マイケル・ランディの『アート・ビン』は、希望者が「失敗したアート作品」を持ち寄って、放り込むという「失敗作の墓場」。この墓場、とにかく巨大なんですよ。階段を登って、放り込むのはさぞ心地よかろう。何よりも、あの衝撃に耐えられるガラスの強さがすごい(そこ?)。

イザ・ゲンツゲンの『世界受信機』は、コンクリート片で作られたラジオ。他のミニマルな作品が、沈黙を装いながらかえって雄弁なのに対し、このラジオからは振っても叩いても何の音も聞こえてきそうにない。電波を受信するどころか、逆に音を閉じ込めてしまいそうな灰色の塊。

十字架の中に巨大な砲弾を配したエドワード&ナンシー・キーンホルツの『ビッグ・ダブル・クロス』の印象は、非キリスト教圏に生きる私達にとっても衝撃的。美しいのがまた罪深い。

どんな優れた作家でも、戦意高揚のために使われてしまえば、もれなく愚かに見えてくる『大谷芳久コレクション』と、意見を言うことが極めて難しい戦時中にもかかわらず、軍による芸術利用を批判した松本竣介の書簡は、鑑賞者全てがふたつの視点から物を捉えられることを前提にしたなかなか難しい展示。

横浜美術館の駐車場を、もっと殺風景な地下室という作品に変えてしまったのが、グレゴール・シュナイダーの『ジャーマン・アングスト』。天井の低さ、コンクリートの打ちっぱなし感、裸電球の薄暗さ、汚水のプールと狭い通路。すべてが揃いヤバイ場所に入り込んだ感満載で、タイトル通り不安を感じつつも、久しぶりに会えた友だちとふたり、謎のロッカーを開けたり閉めたりしながら、思わずはしゃいでしまった。人が不安を感じ、鬱屈した感情をため込む場所は、国や人種が違おうとも、同じような環境なのかもしれない。

場所を新港ピアに映すと、やなぎみわの『演劇公演「日輪の翼」のための舞台移動車』がお出迎え。トラック野郎のトラックを、もっと巨大に、キュートにした感じで、今回の展示作品の中でも、一番のハッピー感を演出。ただ、この作品にしろ、大竹伸朗の『網膜屋/記憶濾過小屋』にしろ、70年代東北生まれの私にとってすら、こういった土着の雰囲気にあまり心理的接点がなく、少し戸惑いも覚えた。身近なはずなのに遠いというか、何というか。いっそのこと、違う文化圏の出身だったなら、もっと素直に観られたのかも。

土田ヒロミの『煙崎宏 撮影拒否』は、「原爆の子」に広島原爆の被爆体験を寄せた被爆者たちを、その後取材して撮影した作品。私の記憶違いじゃなければ、60年代と最近…の1人2枚ずつだったと思う。60年代には取材拒否していた人が、年老いてからは穏やかな表情で写真に映っていたり、意志を持って取材に応じていた人が亡くなり、遺影となって奥さんと共に写真におさまっていたり。爆風と高熱にやられた遺品も、整然と写真におさめられ、抑えた作風だからこそ、複雑な感情が押し寄せてきた。

日本初紹介というイライアス・ハンセン『見かけとは違う』は、フラスコやビーカーのような実験道具に木や金属という奇妙な取り合わせで、快適な「プライベート空間」を創造。ピンクや黄色、青というちょっとチープな照明が心地よい。よく考えるとかなり変だけど、この部屋に住んでみたくなる。

ギムホンソック『クマのような構造物』

マイケル・ランディ『アート・ビン』

グレゴール・シュナイダー『ジャーマン・アングスト』

土田ヒロミ『煙崎宏 撮影拒否』

『演劇公演「日輪の翼」のための舞台移動車』

イライアス・ハンセン『見かけとは違う』

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