読むというエネルギー

これまで、少し本の読めない期間があっても、それは一過性だと思ってきた。幼い頃から、雑誌でも新聞でも、中身に興味があろうがなかろうが、手元にあれば全部読んでしまういわゆる「活字中毒」だったから。身についた習性は、そんな簡単に失われないはず。そう信じていた。
でも最近は、その自信が揺らいでる。もうこのまま、読めなくなっちゃうんじゃないか。そんな不安に、押しつぶされそうになって。
両親と親戚で、90代が2人と80代が2人、社会的にはもう若くないけれど、相対的にはその中で若いのは自分ひとりという状態で、両親と親戚はそれぞれがんばってくれているけれど、長い時間は目を離せず、安心した自分の時間がほとんど持てない。でも仕事を含めて、時間がまるでない訳じゃない。
ただ、気が休まらないというか、少し疲れているらしく、結構時間を無駄に割いているのが、細切れ時間に読めるSNSだとか、ご飯を食べながら観られるテレビ。絶対に読みたい、観たいという訳ではないものに、どんどん時間が浸食され、やがて夜になると、あえなく時間切れ。
こういう状態に陥ると、年齢とか環境とかのせいで、その方面へのエネルギーが、もうなくなったんだという極論に辿り着いてしまいがちだけど…。ちょっと待って。本当にそうなのかな?
ただ単に、子供の頃から身に着けてきたはずの「習慣」が、なくなっただけなのでは?
こういうブログまで長年やっているのに、読書や諸々鑑賞系が、できなくなったのは非常事態。だからつい、色々考えてしまう。
そして細切れ時間だから、落ち着いて読書ができない~とか言いながら、わざわざ時間を割いて文章を書き、ブログにあげようとする。我ながらその心理がよくわかりません。分裂気味ですね…。
別に本を読まなくても、生きてはいられる。ただそこにしがみつきたいから、こうやってもがいているだけ。一種の執着かもしれない。
ただとりあえず、「習慣を取り戻す」ところから、もう一度はじめてみよう。
そう考えていた矢先、NHKでやっていたフジコ・ヘミングさんの追悼特集で、フジコさんが死の直前、病院でピアノを弾く機会をようやく得られたのに、体内からもうエネルギーが湧いてこず、自らピアノの蓋を閉めてしまうシーンを観た。あれだけのエネルギーを、ピアノの演奏に注ぎ込んでいたフジコさんでも、ああいう瞬間が来る。そのことがかなりショックだったらしく、正直まだ立ち直れないでいる。