ミッドナイト・イン・パリ
原題:Midnight in Paris
製作年:2011年
スペイン・アメリカ合作
監督/脚本:ウッディ・アレン
出演:キャシー・ベイツ、エイドリアン・ブロディ
「ウディ・アレンの映画? ああ、あの金曜日の夜に観に行くようなやつね」と、かつて知人から言われ、ちょっとムッとした記憶があります。でも確かにこの『ミッド・ナイト・イン・パリ』は、まさに金曜日の夜にカップルで観るのが似合う映画。ただ、軽いタッチではあるけれど、実際に軽い訳ではなく、マイルドを装いつつなかなか深みもあり。
主人公は作家になることを夢見ながら、ハリウッドで二流作品の脚本を書いているそこそこ実力のある脚本家。婚約者とその家族と共にパリに来て、パリに住みながら小説を書けたらと願うようになります。実は以前も、パリに住みたいと思っていたのですが、しがらみを乗り越えられず実現できないままでした。
どう思いますか? こういう男性。女性の中には、「パリに住んで小説書くなんて、どんだけロマンティストなの? 冗談じゃない、ちゃんと稼いできてちょうだい!」と、主人公の婚約者と同様に思う方もいるだろうけれど、彼の夢が実現不可能とも言い切れません。そもそもこの主人公は、夢ばかり口にして、現実を見られないダメ男とは違います。生活を保つための仕事は最小限に抑えて、小説を書く時間を作ろうと計画しているだけ。できないことではないのでは? もちろん派手な生活は難しくなりますが。「小説書くぞ」と言うだけではなく、忙しい仕事の間を縫ってちゃんと作品仕上げているし。そのあたりの設定が細かい。少なくても一度小説家を目指したことのある人なら、おやおや、この人は口だけじゃなく、なかなか本気じゃないかと思うはずです。
でも彼の婚約者と共和党支持者でアメリカ万歳なその両親は、ハリウッドの脚本書きでそこそこ稼げるキャラクターとしてのみ、彼を見ています。彼の方も、1920年代(もう少し後?)のパリに行ってみたいと願うばかりの回顧主義者。どっちもどっちの両極端で、ふたりの溝は深まるばかり。
そんな夜、主人公は酔いを醒ますために歩いていたパリの路地裏で、ふいにタイムスリップして見知らぬ男たちの乗る車へ同乗させられます。連れて行かれた先は、当時の芸術家たちが集まる社交場。
その日から毎晩、この異空間にある芸術家街に、彼は出かけるようになりますが、フィッツジェラルドの妻・ゼルダに「小説書いている」と言っちゃうし、ヘミングウェイに「男らしくない、表に出ろ」って挑発されるし、そのヘミングウェイの紹介で著述家・美術収集家として著名なガートルード・スタインに小説みてもらうことになっちゃうし、彼女の家ではピカソが絵を描いているしと、まるで夢のような出来事ばかりが次々と…。
でもこれが、現代社会とアメリカに適応できず、パリや昔ばかりに憧れていた彼が、しっかり現実と向き合うためのきっかけになります。
やがて彼はふとしたきっかけで、時代をさらに遡ってベル・エポックの時代にまでタイムスリップするのですが、過去に行くにつれて迎えてくれる人々の心の開き方がどんどん広くなるようで、涙が出そうになりました。ただ、主人公じゃない人だけど、ルネサンス期まで行ってしまうのは、さすがに行き過ぎですよ。かわいそう。現代人じゃ、とても対応できやしない。
巨匠たちが、案外普通の人なのもいい。あのピカソやゴーギャンまでが、揃いも揃ってかなりの俗物です。さすがにサルバドール・ダリ、マン・レイ、ルイス・ブニュエルの一派は、「ちゃんと変人」でしたが。それにしてもこの3人、主人公がタイムスリップしてきたと言っても、誰ひとり驚きません。ううむ、さすがシュルレアリスト…(映画で観た時はそうだと思ったんですが、後で再度DVDで観たら、主人公が「修辞の問題じゃなくて」ってちゃんと突っ込んでますね。劇場版ではこの台詞がカットされていたのか、私がぼんやりしていて見落としたのか。2022年追記)。
こういうディテールの洒落っ気や映画としての骨格の確かさが、設定の滅茶苦茶さに美しい魔法をかけます。
毎日の生活の中で、人は自分に枷を設けて、すぐ動けなくなってしまう。そこから抜け出すには、きっと何か刺激が必要なのでしょう。なるほど、その起爆装置の舞台として、花の都パリは最適。私自身も、この映画自体が起爆剤になって、一歩前に踏み出せそうな気がしてきました。
若かりし頃の切れ味鋭いコメディも観たくなりますが、ウディの「ひねくれた人が心おきなく楽しめるおとぎ話」の世界は、まだまだ健在。観ている間中、そして観終わった後も、しばらく愉しい気持ちが続きました。ただそれと同時に、なぜかとてもせつなくなるのですけどね。