『傾く小屋 美術家たちの証言 since 9.11』

傾く小屋 美術家たちの証言 since 9.11

2002年11月12日~12月15日
東京都現代美術館にて

(主催)財団法人東京都歴史文化財団/東京都現代美術館/セゾンアートプログラム

この展覧会は、美術館という箱を失っても中身は保ったセゾンアートプログラムが、東京都立現代美術館という立派な「箱」を使って企画をするという珍しいコラボレーション。

それぞれの作品の傍には、以下の質問に対しての各作者の回答が貼られている。

1. 9.11以降の世界を意識した現代社会における文化(美術)の状況と自身の制作活動について。
2. これからの美術館と作家について

いずれも相当な難問。多くの作者が、特に1に関して、極めてまじめに真っ向から回答しているせいか、少し大仰で堅苦しく感じる。ところが作品自体は、その文章とは違い、見事に9.11を「迂回」している。

最初に目に飛びこんできたのは、斉藤芽生氏の作品。そこからはダイレクトに「心の闇」が感じられた。団地というコンクリートの壁に押しこまれたときの圧迫感、冷たさや寂しさ。年が離れた末っ子だけど一応兄がふたりいた私でも、ひとりっ子が父母のすべてを受け止めるような圧倒的な息苦しさが、この作品を通すとヒリヒリと感じられる。

「花輪シリーズ」にしろ「晒野団地住居案内」にしろ、心の傷のあからさまな表出と、すっかり確立された個性に、現代らしからぬものと現代そのものの両方を感じたりもする。いろいろな意味でギリギリな作品。この「怖さ」に妙な親近感を覚えてしまうのは、闇にポツンと浮かびあがる街灯を、子供のころはまだ目にした世代だからかもしれない。

豊嶋康子氏の作品は、いろいろなジャンルの企業の株(主にミニ株)を定額で購入。しかし利益のための売買は一切行わず、そのまま放っておく。さらにあらゆる都市銀行に、口座を開設したりなど、いろいろなアクションをおこし、その過程をすべて展示するという作品。

1996年から始まったこの作品は、ずっと続いて現在に至る。こういうことを思いつく人はいるのかもしれないが、展示された経済関連書類さえ、殺風景ながら美しさを感じさせてくれて、なんだかうれしくなってしまった。放置された株価がこの期間、ドラマティックな展開を遂げたのは、みなさんご存知の通り。

誰もが儲けようと必死になっている株投資に、芸術として踏みこんでしまうこの姿勢は、徹底して客観的な立場を生み出し、経済専門誌をはじめとするジャーナリズムの分析より、下手をするとはっきりと現状を映し出してしまう。

展覧会の「傾く家」というタイトルが、この作品から想起されたという中村一美氏の展示は、立体作品・絵画作品ともに巨大で、東京都立現代美術館という大きな箱を、フルに活用。

作品自体に加えて印象的だったのは、質問状の回答にあった作者の社会への視点。作品の美しさに対して、言葉の方はかなり強く、そのギャップが激しかったから。

宮本隆司氏の作品は、俗にホームレスと呼ばれる人々が作った「ダンボールハウス」の写真の展示と、作者自身が実際にダンボールハウスを作って、その中に作った小さな穴(ピンホール)から、社会を覗いた作品など。

ホームレスの人々が作るダンボールハウスには、驚くほど工夫がなされている。これだけ高い能力があるなら、あらためて何かができるのではないかと思ってしまうが、実際には一度はずれてしまうとなかなか戻れないことも多いと思うので、かろうじて社会生活にしがみついている私などが、簡単にそんなことを言っていいはずがない。

たくさんのカラフルな石鹸を、ビニールでひとつひとつ包んで展示した作品は、横溝美由紀氏によるもの。本物の石鹸とフェイクの石鹸があるそうだが、まったく区別がつかない。このカラフルさは、子供が喜ぶキャンディーのような趣き。キャンディ包みの持つ儚さはそのままなのに、作品と呼ぶにふさわしい謎の存在感があった。

もうひとつの作品の美しさにも、素直に感激してしまった。日本では採取されない岩塩を、上からいくつも吊るしたもので、床にも岩塩を敷きつめてあり、何もかもが真っ白な作品。作者自身が「初めて自然素材を使った」と書いていた。

この作品の傍にいると、雪が降りはじめたとたんに時が止まり、中空で粉雪が浮かんだ状態でかたまっている中に、立っているような気分になる。ただ美しい錯覚を運ぶだけではなく、心の中にすっと入ってきた。

興味を持った作品には、不思議と自分と同世代の作者が多かった。全然違う環境で育っていても、無意識のうちに、その時代の空気や文化に染まっているものなのかもしれない。

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