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書籍や雑誌を中心とした編集者・ライターです。

『遠くで永く Eternal in the distance 荒木珠奈展』

遠くで永く Eternal in the distance
荒木珠奈展

Araki Tamana 荒木珠奈 (studiotamana.com)
2000年2月18日~3月26日
FORAM ART SHOP エキジビションスペース
東京都千代田区丸の内3―5―1東京国際フォーラムBブロック1F フォーラム・アート・ショップ内

大きな赤い繭のようなものから、展示場のすみずみに、長い糸が伸びている。

その先にあるのは、ミニチュアの家であったり、子供の手のようなものであったり、椅子であったり。

この作品を眺めていると、子供のころの夕方を、なんとなく思い出す。

用いられている素材のためばかりではなく、大きなざっくりとした感触の赤い玉と、そこから伸びた糸の行き着く先、赤い玉とミニチュアとの大きさのバランス。

それらすべてから、この感情は引き起こされるのだと思う。

まるで、心の中に眠っている「感傷」を、外側から客観的に、眺めたような気分になった。

『ソフィ カル ─ 限局性激痛』(1999-2000)

ソフィ カル ─ 限局性激痛1999-2000

原美術館にて
SOPHIE CALLE EXQUISITE PAIN
東京都品川区北品川4-7-25(当時)
1999年11月20ー2000年2月27日

苦しかったり悲しかったりした感情を、どうやったら、客観的に見つめて作品にできるだろう。 その過程を晒しながら、それ自体を作品にしてしまった展覧会。

作者であるソフィ・カルが、あまり好きじゃなかった日本への留学の末、自国フランスへ置いてきた恋人に、下手な嘘をつかれ捨てられてしまったのが、いまから15年前。

その後彼女は、厄払いのため、その体験を、いろんな人に話すことにする。その代わり、相手にも、いままでで一番苦しかったことを、話してもらう。

そんな前提のもと、厄払いの過程で聞いた各人の苦しみが、やや感傷的な失恋話と交互に日本語で展示されていた。

ソフィ・カルの失恋話は、グレーの布地に日本語の明朝体で縫いとられていて、他の体験は、白い布地にグレーの刺繍。各布地の上には、話の内容に関係する写真が一枚飾られている。

失恋話、苦しい話、失恋話…という執拗な反復に飽きかけた頃、気づくと、ソフィ・カルの体験の方は、土台となったグレーの布地の縫い取りが、布地とほぼ同じ色の糸で行われるようになり、徐々に記憶が薄れて悲しみも風化してきたことを示す。

他人ごとのように作品を「読んで」いくうちに、いろんな感情が波のように生まれては消え、作品との距離が離れてはまた近づく。そして一度に、一週間くらいの感情の移り変わりを、体験した気分になる。

どうやらそれは、偶然ではなく、仕組まれたことらしい。そのことが、少しだけ怖かった。

『銅金裕司展』

『銅金裕司展』

GALERIE SOLにて

東京都新宿区早稲田町74 箕作ビル1階(当時)
現在大阪CASで、同時開催中

画廊の扉をあけると、縦線の長い鉄製の十字が、床に敷かれているのが目に入り、同時に、おだやかな音楽も、やや控えめに聞こえてきた。音のする方を探すと、そこには一台のMacが置かれている。

十字の鉄板の上に、ぽつりぽつりと土が盛られ、その上に植えられた植物や「その他のもの」。 画廊の方が誰もいないので、説明を聞く道は閉ざされてしまって、もう一度、その十字に注意を向け、音に耳を傾ける。鉄製の板が、金属らしからぬ暖かみをもっているのは、点在する土と植物のせいかもしれない。

しばらくたつと、壁際にあるテレビにようやく気づき、そこへ近づく。するとそのテレビの上には、一冊の黒いファイルが。それを手に取ってページをめくった。

そこには、この作品ができあがるまでの過程が、簡潔に記されていた。ようやく私は、十字の上に点在する土などが、近所のお絵描き教室に通う子供たちの手による「ガーデニング」だと知った。

ファイルの後ろの方にはさまれた子供たちの感想は、そのガーデニングが楽しかったことと、自分達がそれらにどんな気持ちをこめたのかを、鑑賞者である私に伝えてくれる。 例えば、最後に「楽しかった!」と大きく記した小林君は、怪獣しか入れない温泉を、土の上に設けたのだそうだ。

それにしても、子供たちのガーデニングは、土の量やその土が置かれる場所が、全体的に統一されていて、お絵描き教室に通っているからか、センスがとてもいい。 だから、少しななめに配置された十字の整った様を壊すことがない。

子供たちに、はじめなにか指示を与えたのか、それとも自由にやらせたら、結果的にそうなったのか、想像して考えこんでしまった。

また、後から、そのときの穏やかな音楽は、十字のアルミ板の下に設けられた特別な装置が、ガーデニングの植物の電位変化を読み取り、変換された音だと知ってびっくり。

あの画廊に入った瞬間に、自分が作品に影響を与えていたのかもしれないと考えると、不思議な気分になる。

それらの過程や情報を、知らなくても、十分おもしろ作品なのだが、知ればますますおもしろい。

ふっと、そういう情報や、作品が創られていった過程、そして鑑賞者自身を含めて、ひとつの作品なのかもしれないと考えると、いつもの美術鑑賞の仕方の土台がぐらついて、正直に言えば、まだ少し困惑したままでいる。

『ゲイリー・ヒル 幻想空間体験展』

ゲイリー・ヒル 幻想空間体験展

ワタリウム美術館
東京都渋谷区神宮前3-7-6
期間:2000年9月1日~2001年1月14日

ナム・ジュン・パイクをはじめとするフルクサスメンバーを、アメリカのヴィデオアート第一世代とするなら、1980年代からの第2世代の担い手として、様々な手法で作品を作ることで知られるゲイリー・ヒルの展覧会。

最初の会場・ワタリウム美術館の1Fには、「リメンバリングパラリングエイ」という作品がありました。あらかじめ読んでいたチラシには、「遠くから女性が近づいてくる」と書いてあるんですが……。

これがもう本当に「ものすごく遠く」から、近づいてきます。なにしろはじめは、壁に映された小さな光の点にすぎないのですから。その光の点が、グニョグニョとうごめくと、ようやくそれが人間の形をしていると判明。音もない暗闇のなかで、「映像ごと」大きくなる女性は、少し躓くような独特の歩き方で、どんどん近づいてきます。

いつの間にか驚くほど巨大化した女性は、立ち止まって大きな声で叫ぶのですが、目はうつろで、なんとも悲痛な叫び声。

これがすごく怖く感じられます。本来は他人には見えないはずの心の奥にあるものに、何かの拍子で出くわしてしまった。そんな感じで。

幽霊を見てしまった人は、怖いと感じる以前に、「うわあ、見ちゃった」と思うのだとか(あくまでも、幽霊を見たことのある友人の体験談)。この作品を観た瞬間、同じ言葉が心のなかに浮かびました。

日常の感覚では理解できないほど小さなものや、逆に大きすぎるものは、恐ろしいと感じられるというのもあるかもしれません。

暗闇のなか、同じ部屋には、ゆっくりとサーチライトが流れる作品も置かれていました。女の叫びが終ってから、その光を振りかえって見ると、やっぱり今のは、「見ちゃった」ものだなと思えてきます。

3Fの会場には、作者のゲイリー・ヒル自身が、なにやら叫びながら、壁にぶつかる映像が流れていました。一度ぶつかると、映像自体もそのたび途絶えて、再びぶつかる映像が映し出され、それがただ繰り返されます。

記憶のフラッシュバックを思わせるような、なんとも「痛い」映像の連続を見続けていると、自分の方がおかしくなってしまい、これが見えている気分に。ちょっと不安定なところがあって、まわりの人の精神状態に引き摺られがちなタイプの方は、くれぐれもお気をつけ下さい。

さらに振り返ると、この美術館の構造上、一階下となる壁に映写されるさっきの叫ぶ女性の動画が、だいぶ遠くになってもまだ巨大に見え、叫び声まで聞こえてきます。こうなると、会場全体が一気に怖い異空間に。

その上の階では、机に向ってなにやら書き物をしている男の姿が、彼の後頭部・左手・右手の3つの部分に分割され、小さな画面に映し出されていました。男は、左手で鏡文字を書いてみたり、水を飲んだり、それを飽きもせずに続けています。

なんて変な奴……。しかしそれを、じいっと眺めている私も変な奴。 孤独です。この作品もとても孤独。見ている側は、その孤独に、ついついつきあってしまう。

最後の作品「ローリンルームミラー」は、水平移動と上下移動の2つのコンピュータで制御されたシステムで成り立っていて、窓から差しこんだ光のような映像が、会場の壁や天井、床に投影されていました。他人事のようにそれを眺めていると、いつの間にか、その映像のなかに、鑑賞者にすぎないはずの私自身も取りこまれてしまい、あらっと思った時には、映像の外に放り出されています。

この作品に一瞬取り込まれたとしても、それは道を歩いていて、向こう側から来る人が視界に入ったように偶発的なもの。誰かに見られたとすら、感じないかもしれない。でも一度巻き込まれたからには、もう関係性が生じてしまっています。

タイトルは「幻想空間体験」。でも体験したのは、幻想ではないかな? ただ、普段見えない部分を見たという忘れがたい「体験」であることは事実で、それはやはり幻想なのかもしれません。作品を体験する前とは、自分自身のなにかが違ってしまった。

Modern/Classic

Modern/Classic

セゾンアートプログラム・ギャラリー
期間:2001年1月9日~1月27日
東京都渋谷区神宮前5-53-67 コスモス青山1F(当時)

「classic」という言葉は、「古典」と訳されることが多くて、古めかしいイメージで捉えられがち。一度classicになってしまうと、その作品の多くは、大きな美術館などでしか観ることしかできず、いつの間にか、祭りあげられてしまうかもしれない。

classicという言葉には、「古典」の他にも、時代を超えて伝えられるべき「最高級」という意味もあるそう。この展示では、そのまわりを取り囲む堅苦しい雰囲気や権威を取り払らってしまったため、逆に誰にも真似できない作品の個性や重みが、ストレートに伝わってくる。いやぁやっぱりすごい。

カンディンスキー、クレー、デュシャン、ミロなどの作品は、普通に今のギャラリーに飾られても、まったく古く感じず、新鮮なのに、やはり「クラシック」だと思える。

絵葉書や図版で観るのとは、全く違うので、言葉では伝えられない微妙な質感を、ぜひ確かめに行ってほしい展覧会。

『エンプティ・ガーデン展』

エンプティ・ガーデン展

ワタリウム美術館にて
1999年11月7日まで開催中

半世紀前に造られたヨーゼフ・ボイスの庭を起点とし、5人のアーティストが、それぞれの「エンプティな場所」探しを提案した『エンプティ・ガーデン(EMPTY GARDEN)展』。

このタイトルの響きを、舌先で転がしながら、言葉の意味はまるで考えず、パンフレットの推薦コースに従って、エレベーターや階段を使って美術館中を走りまわる。最後に、貸し出されたスピーカーを肩にかけ、『建築家会館』中庭の展示場までの散歩。その散歩を終え、美術館へ戻るころには、もう空に夕焼けがひろがっていた。

作品を観に来たというより、ワタリウム美術館や、その美術館がある”神宮前”という土地の雰囲気を楽しんだだけの複雑な気分で、あとに残った曖昧な感情に途方にくれながら、ようやく私はタイトルである”エンプティ”の意味を噛みしめる。

はじめは、屋外階段の踊り場から見えるビル屋上の物干し竿や、自分の心のなかにひろがるノスタルジックな回想の方に心を奪われ、「作品」の影が薄いことに戸惑った。ところがしばらくたつと、それを自然に受け入れるようになった。

これらの作品は、存在をアピールするよりも、鑑賞者の心の中で、エンプティな回想がはじまるための起爆装置の役割を果たしているのだろう。

上野のホームレスのテントや、渋谷の街燈。竜安寺石庭に影響を受けたというケルネ(原子)の庭。多数のピアノ線に突き刺された砂糖が、次第に風化してゆく屋外展示。それらの作品によって、神宮前という街並みの空虚さは際立ち、なにかの記憶は手繰りよせられるのに、それがなにかはよくわからない。

確かにそれは、曖昧でとらえどころのない体験なのだけれど、不快な気分には、なぜかならない。ワタリウム美術館という建造物や、上空から見る神宮前の街並みが、作品よりも”エンプティ”な要素を含んでいることも、素直に受けいれてしまう。

鑑賞者に無視されようがされまいが、一向におかまいなしという風情のロイス・ワインバーガーの植物の作品が、そのためにかえって記憶に残った。

(展示作品)
『贈り物』 『夜明けの鳥と』島袋道浩
『渋谷/ストーリーライト』『上野公園/テント』 オフラ・ニコライ
『ヨーゼフ・ボイスの庭』
『ケルネ(原子)』 『インサイドアウト』カールステン・ニコライ
『ルーフ・ガーデン』 『地図』『ムーブメント』『幼稚園』『トーティズ・クォーティーズ』 『スカイライン』『燃やす、歩く』『カモフラージュ』ロイス・ワインバーガー
『temperament【atomosphere】』 粟野ユミト

『ラ・ジュテ』

ラ・ジュテ

1962年 フランス
クリス・マルケル
(撮影)ジャン・シアボー
(音楽)トレヴァー・ダンカン
(出演)エレーヌ・シャトラン 他

1962年に描かれたモノクロームの未来は、いまだに色褪せていない。静止した画像が、その前後の時の流れを運んでくる。

それを観るのは、不思議な体験だった。

テリー・ギリアムの『12モンキーズ』が、この作品にインスパイアされて創られている(と当時報道されていたが、ギリアム監督自身がそれを否定)。しかし、その作品とこの作品とでは、タイムトラベルの質が、基本的に違っている。

『ラ・ジュテ』のタイムトラベルは、観念の旅。肉体の感覚が希薄で、とぎすまされたイメージだけが残る。それに対して、テリー・ギリアムは、人間の生(なま)の肉体に、タイムトラベルをさせた。そのダメージの大きさは、確かに映画から伝わってきた。しかし、私にとって、よりリアリティーを持って迫ってきたのは、不思議なことに、この『ラ・ジュテ』の方だった。

オルレー空港の送迎デッキで、男がひとり殺される。それを見て悲嘆にくれる女の表情。この映画の主人公は、子供のころに見たそのイメージから、どうしても逃れられない。

それは、残酷な光景のはずだが、主人公の中では、まだ平和だった時代の甘美な記憶のひとつとなっている。

というのも、第三次世界大戦後のパリは、他国に占領されている状態。しかも核汚染された地上には、もはや人間など住めやしない。

占領者は、未来と過去からエネルギーを得て、生き残ろうとしている。何人もの捕虜を、実験で死や狂気に追いやった挙げ句に、過去のイメージを定着できる主人公が、被験者に選ばれた。

捕虜たちは、夢さえも、占領者たちに監視されているのだ。

「記憶のスライド」という表現があるが、この映画では、静止画像が、スライドのようにつながれていて、モノローグにより語られることで、自分自身の未来の記憶を思い出しているような奇妙な錯覚に陥る。それは、核戦争の可能性が、この映画が創られてから30年以上たった現在も、まだなおあるからかもしれない。

※以下ネタバレ注意

主人公が、苦しみながら辿りついた過去は、本物の部屋があり、本物のネコがいる幸福な印象の世界。しかし、過去も未来もない「瞬間」だけの世界では、主人公とひとりの女性の周りにしか「時」がない。思い出とはどこかが違う、あり得ない過去。 絶望的な未来への希望。過去へのノスタルジー。全てを管理され、一歩外に踏み出せば生きられない今。それらを、時間軸を縦方向に上下移動しながら、この作品は描いてゆく。

ひとつひとつの場面に、モノローグの言葉にも、ほとんど無駄がない。主人公の過剰な感傷をのぞいては。 切り株の年輪の外側にある未来。時が止まっても変化のない博物館の剥製。唯一画面が動く、女性がまどろみから目を覚まし、目をひらくシーン。過去と未来が描く不思議な円環…などなど。

撮影したフィルムを、動かない映像に加工して、29分に凝縮されたモノクロームの映像は、美しくて残酷な物語を支えるだけではなく、それ自体が主題なのだと思う。

リタ・マクブライド(Rita McBride)展:NATIONAL CHAIN

リタ・マクブライド(Rita McBride)展:NATIONAL CHAIN

1999.9.9(木)-12.18(土)
株式会社ギャラリー・ ドゥ
東京都目黒区柿の木坂2-10-17(当時)

薄い金属の建築資材を使い、白く広いギャラリーいちめんに、格子状に張り巡らされた”National Chain”。

身長169.8センチの私の肩から上が、ちょうど出るくらいの高さに、格子状にはりめぐらされたNational Chainは、金属製でもとても軽いらしい。ギャラリーの高い天井に直接フックを打ちつけ、そこから白い糸状のもので、床に平行になるように吊るされている。

この薄いグレーの建築資材は、日本では製造されていない。わざわざ空輸してギャラリーまで運び、部屋のなかに机を並べて、その上で制作したのだとか。

そんな美しいNational Chainに、肩のあたりで空間が分断されているせいで、少し移動するにも、いちいち身をかがめなくてはならない。少し前を歩く友人を見ると、まるで首枷(?)でもされているようで、動きが不自由なはずが、なんだか妙に楽しそう。

ギャラリーの入口付近の壁には、ちょっと触れたら落ちてしまいそうな木の葉が貼りつけられている。ベネチアンガラスでできたこの木の葉たちは、繊細で美しく、そこに値段もつけられていたので、思わず欲しくなってしまったが、いつものごとく金欠ゆえに購入未遂。

受付の方の上にも、このChainは張り巡らされていて、ここから首を出しての作業はなかなか大変なんですようとおっしゃられていたが、やはりその姿は楽しげに見える。

National Chainを含む造形すべてが、空間を分断する高さを含めて、きっと計算され尽くされているのだろう。その効果からか、散々不自由な想いをさせられたにもかかわらず、かえって開放された気持ちになった。

荒木経惟 - センチメンタルな写真、人生。

荒木経惟 - センチメンタルな写真、人生。

1999年04月17日(土)〜07月04日(日)
東京都現代美術館にて

本当に、センチメンタルだった…。

同じ女性だから、気になるのかもしれない。女性の肉体的な欠陥を、アラーキーの写真は、不思議と強調してしまう。それにもかかわらず、写真のなかの女性は、怪しくて魅力的。

奥さんの遺影に用いられたポートレートは、アラーキーの心に、ぽっかり開いた穴を見るような、最高傑作だと思う。

その後に続く他の女性の写真には、むしろむなしさばかりが残る。

また、戦後の東京の町のいびつで醜い部分も、ファインダーにおさめられている。やはりこちらも、きれいなばかりではないが、やはり魅力に満ちている。

歴史の教科書とは違うもうひとつの東京が、ずらりと展示されていて、少し怖さすら感じた。

『なぜ、これがアートなの?』

なぜ、これがアートなの?

アメリア・アレナス 著
福のり子 翻訳
淡交社
対話型鑑賞について

現代美術の流れを、ひとりの人間味あふれるキューレーターの目を通して、平易な言葉で説明している本。図版もきれいで、とても読みやすい。しかしそれだけに、この本での作品の見方を、鵜呑みにする人が出るかもしれません。そんな危険性はあります。

美術の見方なんて、ひとつではないのですから、自分で観て考えるのが一番。 しかし、著者のさりげなく豊かな知識にも触れながら、作品を覗くことはいい刺激にはなりました。

こういう「作家性」のある美術の本を読むことで、自分が美術に関してどうしても持ってしまっていた「枠」が、ひとつ取りのぞかれた気がするのです。

ちなみにこの本と同名の展覧会が、水戸芸術館現代美術ギャラリーでひらかれています。この本を読んで刺激を受けると、実際に作品を観たくなりました。もっと町へ出て、美術館や画廊を覗いてみようかな、という気分になれる本です。