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『革命前夜』

革命前夜

原題:Prima Della Rivoluzione
1964年/イタリア
監督:ルナルド・ベルトルッチ
脚本:ルナルド・ベルトルッチ
撮影:ルド・スカバルダ
音楽:エンニオ・モリコーネ / ジーノ・パオリ
出演 :ドリアーナ・アスティ / フランチェスコ・バリッリ / アレン・ミジェット

今の日本では、ほとんどの人が衣食住を手に入れることができ、時には趣味さえ楽しむことができる。だからあくせく働かなくてはならないという点を除けば、この映画を少しはわかるのではないだろうか。しかし本物のブルジョワジーからはほど遠いので、滅びゆくとき特有の皮肉なこの美しさを、放つことはできないだろうけれども。

ブルジョワジー階級ながらも、若者らしく不平等な世の中に反発を覚え、共産主義に傾倒する青年が主人公。

そのまわりにいるのは、たまの家出や酒を飲むことでしか、周囲へ反発できない友人。彼の弱々しさは儚げで美しく、しかしついには自己嫌悪から自滅してゆく。

共産党や労働組合が、結局は単にブルジョワジーの真似をしたいだけだと気づいても、子供たちの教育へ信念をかける博学な教師。

甥である主人公の青年と束の間の愛情を交わしながら、つねに精神不安定で、自信のなさが逆に自信ともなっている美しい叔母。

その叔母の友人で、父親の死によって、もうすぐ土地や屋敷を、他人の手へ渡さなければならないブルジョワの没落そのもののような初老の男性。働くという概念さえ持たず、その年齢になってしまった男性のこの後には、死しか想像できない。

しかしその男性に主人公は反発しながらも、男性がむかってくる船へ叫んだ詩が、自分の将来をも暗示していることに気づいてしまう。

「自分は革命前夜にしか生きられない」

そう悟ると、主人公の青年は、滅びゆくブルジョワジーへ自ら帰ってゆくのだが、その言葉をかみしめるたび、ブルジョワジーではない自分にも、不思議とその言葉がはね返ってくる。変革を望んでも、しょせん生き馬の目を抜くような状況には、対応できないとわかっている自分。もしくは、そう思いこんでしまっている自分。

そのなかで実際に過ごす人たちは、どんなに大変かということがわかってはいても、やはり革命前夜は圧倒的に美しい。滅びるとわかっているのに、それだからこそ美しく輝く。絶望の先にも、奇妙なあきらめがあり、そこから病的な光が放たれる。

そんな滅びの美しさを、モノクロ―ムの映像へ漂わすことができるのは、やはりベルトリッチならでは。心へすっと忍びこむ感傷的な、それでいて的確なセリフ。それらが語られるとき、最新の注意を払って補われる音楽。時には沈黙さえ、見事な音楽となっている。

静かでシンプルなのに、怖いほどに非凡。映画という媒体の底知れぬ魅力を、あらためて思い知らされた作品だった。

『グロリア』

グロリア

1980年 アメリカ
監督・脚本:ジョン・カサヴェティス
撮影監督:フレッド・シュラー
音楽:ビル・コンティ
出演: ジーナ・ローランズ, バック・ヘンリー

サヴァイバルにまるで適さない私なのに、画面のなかのタフな女性に憧れてしまった。

名前はグロリア。クールで嘘がなく、曲がったことは許さない。男たちの弱者切り捨ての論理とは、また少し違ったレヴェルで筋を通す女。子供は大嫌いだけど、子供を一人前の人間として扱うまっとうさ。いざというときの、すごい決断力。いろいろあっただろう人生を、悔やんだり隠したりしない潔さ。

なんて格好いいんだろう。この映画を観ると、オバサンになることが、不思議に怖くなくなる。でも彼女のようになることは、多分絶対にできない。今の彼女の見事なスタイルの影には、いくつも積み重ねてきた悲しみや試練があるだろうから。

ウンガロの激しい色彩の絵画から、唐突に映画ははじまる。甘さのない緊張感に満ちた画面に、グロリアも唐突に現れる。

そこは、いまやマフィアに襲われようという会計士の部屋。危機を察した両親が、たまたま訪ねてきた友人女性・グロリアに預けた少年以外の家族全員は、あっという間に惨殺されてしまう。苦手な子供をあずけられ、あげくの果てに誘拐犯とまちがわれながら、グロリアと少年は、不仲のまま逃避行をはじめる。殺される確率の方がはるかに高い、八方塞がりの逃避行を。

あっという間に天涯孤独になってしまった少年の心を、自分が絶望から救っていることに、グロリア本人も気づいていないだろう。 ニューヨークのブロンクスからハーレム、アッパー・イーストサイドへ。特に地下鉄でグロリアと少年が捕まりそうになったとき、女性と子供に大勢でなにしやがるんだとばかりに、まわりの乗客がマフィアの手下たちを、協力して羽交い締めにするシーンが印象的だった。下町気質は、世界のどこでも変わらない。アメリカでも日本でも、今は失われているのかもしれないが。

マフィアのボスたちも認める「いい女」であるグロリアは、この作品を下敷きにして作られた『レオン』の主人公とは違って、驚くほどの強運の持ち主でもある。こんなに気持ち良く感激できることは、なかなかない。

『孤独な場所で』

孤独な場所で

原題:In a Lonely Place
1950年 アメリカ
93分
監督: ニコラス・レイ
製作: ロバート・ロード
脚本: アンドリュー・ソルト
主演: ハンフリー・ボガート、グロリア・グレアム
※1993年にいまはもうないミニシアターのシネ・ヴィヴァン・六本木で、この映画を観た際の記録です。

映画が上演し終わり、シネ・ヴィヴァン・六本木の外に出たところで、男の子ふたりがいま観た映画について、感想を言いあっているのが耳に入った。

「なんかさ、映画の高揚感がないよね」

その言葉が印象に残ったのは、そのうちのひとりが、そう言ったからかもしれない。確かにそうかもしれないが、そのことは、この映画の欠点には決してなっていない。

映画のストーリーを、簡単に説明すれば次のようになる。

ひとりの脚本家に、殺人の疑いがかかる。しかしある女性が彼のアリバイを証言したために、その疑いは晴らすことができた。さらにそのことがきっかけで、女性と若くて才能があるその脚本家とは、つきあうことになる。

ところが次第にこの脚本家が、突発的で暴力的な衝動を持っていることがわかりはじめ、愛していたはずの彼を、女性は次第に信じられなくなってゆく。

スクリーンの前に座る観客を、ハラハラさせるには申し分のない設定のはず。それなのにこの映画は、その手の興奮をまるで味あわせてくれない。それはおそらく、実質的な主人公が、女性の方ではなく、実は殺人犯かもしれない脚本家の方だから。

自分の挫折を認めることができず、常にどこか張りつめていて感情を表にあらわさない脚本家は、強いストレスがかかると、相手を殺しかねないほどの暴力を、突発的にふるってしまう。いま風に言えば、すごい勢いで「キレル」。

女性はそんな脚本家の弱さも、丸ごと認めようと努力するのに、自分も殺されかねないような状況に一度陥ったとき、さすがに我慢の限度を超えてしまう。

社会では天才であるかのように扱われる脚本家のさみしさ、そして自分の行動への計り知れない嫌悪感は、ラストシーンの後ろ姿に漂う悲しみにすべてこめられている。

たとえ自分の理想とさえ思える女性から、いくら愛情を受けることができたとしても、脚本家を取り巻くユニークで魅力的な人々が、彼のことを本当に心配していろいろと心を砕いてくれても、その孤独はどうしても埋められないのかもしれない。

一見サスペンスのような設定でありながら、愛情を与えよう、受け入れようと、努力をしつづけても、どうしてもそれをできないひとりの人間を描くこの作品は、期待された興奮を受け取れなかったことで、多くを観客を失望させ、それと同時に予想外の感動を与える。

こんなに魅力的な友人が、まわりから手を差し伸べてくれているというのに、それにこたえられないことは、本当につらいだろうと思う。心に潜む狂気は、それでも顔を出してしまう。

『ゴースト・ドック』

ゴースト・ドック

原題:THE WAY OF SAMURAI
1999年
米・仏・独合作アメリカ映画
監督/脚本:ジム・ジャームッシュ
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:RZA

いまや滅びた旅行鳩の視点からはじまった映画は、主人公の殺し屋「ゴースト・ドック」が、盗んだ高級車を発車させた後、カーオーディオから流れ出した音楽とともに、不思議な安定感を保ちつつエレガントにすべり出す。

それはもう止まらない、「ギャング」と「武士道」と「読書」についての大切な映画。また、「葉隠」と「藪の中」と「ヒップホップ」と「旅行鳩」の映画でもあり。

ここで用いられる「葉隠」は、三島由紀夫の「葉隠入門」でも知られている武士道についての本。ただ、現代の日本人が、どれくらいこれを読んでいるのか。大体、ジャームッシュ自体、本気で使っているのか、冗談なのか。

確かなのは、そこに引用された「葉隠」のセンテンスを、一応日本に生まれ育った私と、現代のアメリカ・ストリートに生きる殺し屋が、同じように解釈したこと。

用いる武器が、刀ではなく拳銃だったり、生きているステージの違いはあっても、ゴースト・ドックは「葉隠」に書かれたことを深く理解し、筋の通った生き方をする。それは、形だけの日本かぶれではなく、内面に深く根を下ろしている。

日本では、戦時中に、この「葉隠」の冒頭『武士道とは死ぬことと見つけたり』を、軍事教育に用いられた過程などもあるので、かえって異国での方が、本来の意図を、汲みとることができた…ということもあるのかもしれない。

ギャングとか武士道とか、ちょっとまちがえば、絵空事になってしまう題材を用いながら、浮ついた雰囲気がない。十分ふざけてはいるのだけれど、足元はしっかりしている。 ときどき、日本の武士映画に見られる、自己陶酔も、まるでない。

ひとつひとつ丁寧な、登場人物の描写。思わず笑っちゃう癖やディテールは、もうお見事。

言葉も解せずに、固い友情で結ばれているゴースト・ドックとアイスクリーム屋。どんな深刻なシーンでも、それを包んでしまうユーモア。いまや時代遅れとなった古いギャングのしきたりや、武士道の忠誠心へのさりげない愛情。

そして大切なことが、本を用いて、次の世代へと手渡される最後のシーン。 その全部が、うまく噛みあって、繊細な映像をつくりあげている。

観客それぞれが、そこになにかを補うことで、複雑な魅力を放つ映画。

語りたくないといったわりに、語ってしまった…。ぜひ、観て下さい。

『さよなら、さよならハリウッド』

さよなら、さよならハリウッド

原題:Hollywood Ending
2002年アメリカ
監督/脚本:ウディ・アレン
出演:ウディ・アレン、ティア・レオーニ、ジョージ・ハミルトン、トリート・ウィリアムズ

この映画で描かれたニューヨークは、それまでになくカラフルで、光輝いている。実はこれ、「9.11」以前の作品なんだとか。確かにあのテロの後では、もう難しいかもしれない。

主人公は今ではおちぶれてしまった映画監督。不遇な生活の末に、ようやく大きなチャンスがまわってきた。彼を推薦してくれたのは元妻。その元妻に助けられながら、なんとかクランクインにまでこぎつけたのに、その前日にストレス性の失明状態となってしまったからさあ大変。

ウディ・アレン演じる映画監督は、相変わらずかなりの神経症気質で、元妻と仕事の話をしていても、途中でつい自分を捨てた(?)妻への繰言へと変ってしまう。そして妻に、「あなたは自分のことばっかり」と言われる。…妙な親近感。

大げさではあるのだけれども、世界が「現実のことから心の内面に巣食う妙なこだわりへ」と、ついついすべり落ちてしまう瞬間を、笑わせるきっかけとして描けるのはさすが。

しかしずっと精神分析を受けながら、まったく症状が改善されない人ばかり。それが、ニューヨークから外に出たくないという意思表示でもあるんだろうか。

『スコルピオンの恋まじない』の催眠術にかかるシーンに引きつづき、ウディ・アレンの「目が見えない演技」には一見の価値あり。

そして、あまりにも都合の良いハッピーエンドに、呆れつつも大笑い。

映画館にて、この映画を観ているビジネスマン風の男性たちが、大声で笑っていたのが印象的だった。

持っているテーマに比べると、あまりにもタッチが軽くて、「もうちょっとねばって欲しい」とも思うけれども、この軽みこそ、ウディ・アレンなのだろう。

よく観れば観ただけの味は出る作品。ええと、素直に言っちゃえば大好きです。

ウディは、相当にひねくれた人種が、安心して感動できるおとぎ話の名手。

『ソウル・オブ・マン』

ソウル・オブ・マン

2003年 アメリカ
原題:THE SOUL OF MAN
監督/脚本:ヴィム・ヴェンダース
製作総指揮:マーティン・スコセッシ
出演者:スキップ・ジェイムスJ.B.ルノアー

今回観た『ソウル・オブ・マン』は、アメリカでの“ブルース生誕100年”記念事業の一貫で「THE BLUES Movie Project」の第1弾。ブラインド・ウィリー・ジョンソン、スキップ・ジェイムス、J.B.ルノアーなど、まるで神のようなブルースを歌いながら、幸せとは決して言えない人生を送ったブルースメンの姿が、「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」の時と同じように「記録」されている。

ヴェンダースの自由さは、このドキュメンタリーを、20世紀音楽を代表して宇宙船にもその音源が積みこまれたブラインド・ウィリー・ジョンソンが、宇宙から語りかける形で始めさせるところ。

ドキュメンタリーといっても、とりあげられた3人のブルースメンの記録は、ほとんど現存していない。だから半分以上は、再現ドラマと言っても良いのだけれども、1920年代の手回しカメラで撮影した成果なのか、まるで本当のドキュメントのように思える。

個人的には音楽を扱った映画の場合、映像や演出は、音楽の質に負けないレベルを保ちつつ、少し後ろにひいていて欲しい。そういう意味でもこの作品は、純粋に私の好みだった。

ともかく今回の主役はブルース。実を言えばブルースには、少し引け目を感じていた。今まで生きてきて、全く苦労がなかったとは言えないけれど、初期のブルースが産み出された土壌と、そこで繰りひろげられた苦難と貧困と差別の歴史を、私が完全に理解することは不可能だと思っていたから。

それでもこの映画を観たとき、たぶん思春期に次いで二度目の大混乱の中にいた私は、六本木のヴァージンシネマで、立派過ぎる椅子に妙な居心地の悪さを感じながら、少し小さくなって腰を下ろしていた。それなのに映画が幕をあけたとたん、三人のブルースメンの歌は、ヴェンダースの映像技術の力も借り、私をあっけなく「ひきずりあげて」しまった。

ブルースには、そういう力があるのだと思う。たとえ聴いている人々よりも、歌っているブルースメンたちの人生の方が、はるかにやりきれないものだったとしても。つらさをユーモアで包みこむ声と音楽、言葉の力が、強く心に響いた。

『エレファント』

エレファント

2003年 アメリカ
原題:Elephant
監督/脚本:ガス・ヴァン・サント
製作総指揮:ダイアン・キートン、ビル・ロビンソン
出演者:ション・ロビンソン
シネセゾン渋谷にて

この映画は、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー『ボウリング・フォー・コロンバイン』と同じコロラド州コロンバイン高校での銃乱射事件を扱っている。

『ボウリング・フォー・コロンバイン』が、ドキュメンタリー形式だったのに対して、こちらは完全なフィクションで、フィクションでしか描けない真実を、探ろうとしているように感じた。

私はアメリカのハイスクールに、一度も足を踏み入れたことがない。それなのにこの映画の教室の光景は、まるでデジャブのようにリアル。比較的恵まれた先進国の中高生時代は、洋の東西を問わず、世代もすべて超えて、あやういものを抱えているのかもしれない。

この時期は、まだ自分の意志で、社会に踏み出す前の段階。ちゃんと扶養されているし、勉強する機会も与えてもらっている。それなのに学校のなかには、訳のわからない鬱屈が積み重なる。もうすぐ爆発しそうな「前触れ」が、そこかしこに漂う。

友だち同士ではしゃぐときの刹那的な楽しさ、どうしてそれほど残酷になれるのかと思えるような悪意、ふくらむ希望や絶え間ない不安……。

ただ、世界中のたくさんの教室では、こういう「前触れ」を抱えながらも、それほど大きな事件は起らない。しかしこの日のコロンバイン高校では、不運にも銃乱射事件が起こってしまった。

事件が起こるまでのハイスクールの1日が、何人かの生徒の視線から、ときには時間軸さえラフに移動させて描かれる。だから同じ場面を、違う角度から、何度も繰り返して見ることになる。これは映画だとわかっていても、同じ場面がそれぞれの生徒にとって、まるで違う重さを持つことに、思わずため息をつくしかない。

ハイスクールのなんと言うことのない気だるさが、日常にありがちなデティールを丁寧に描くことで、どんどんリアルに浮かびあがってきて怖くなった。まるで自分が、その時代に一気にひきずり戻され、本当は不安に押しつぶされそうなのに、強がってみせている気分にさえなる。

さまざまな意匠を凝らした映像と、ベートーベンの『ピアノソナタ第14番』や『エリーゼのために』など効果的な音声のせいか、ありがちな情景を描いても、この映画はまったく凡庸ではない。それどころか、一瞬たりとも目が離せない。

手の混んだいじめや、速やかに銃が手に入る現実、少年少女たちが抱く自分たちの気持ちを読めない教師へのいらだちは、確かに描かれてはいるのだけれども、映画のなかの銃乱射事件にとって、それは要素のひとつに過ぎない。

あの空気、あの鬱屈…。確かにここからは、銃ですべてを撃ってしまいたいという衝動が、生まれるかもしれない。想像するくらいなら、たぶん自分だってやっている。

しかしただ考えるだけではなく、本当にこれを実行してしまった犯人たちには、まるでついていけなくなった。殺したいと考えることと、実際に殺してしまうことの間には、決定的な違いがある。専門家によると、自分が人を殺してしまうのではと不安になるようなタイプと、実際に殺してしまうタイプとは、思考回路がまるで違うのだそうだ。

最後の銃乱射事件は、単なる衝動ではなく、冷静にそして残酷に行われる。実を言えば、あまり観たくないシーン。それなのに、ひとつひとつの場面や音声は、ずっと覚えておきたいと思うほど不安定な魅力に満ちていた。

『ユリイカ(EUREKA)』

ユリイカ(EUREKA)

2001年 日本
監督・脚本・編集・音楽: 青山真治
プロデューサー: 仙頭武則
撮影: 田村正毅
出演: 役所広司/宮崎あおい/宮崎将

たまに眠ってしまう映画がある。とはいえそれは、私にとって誉め言葉で、眠ってしまうほど、心地よい体験だったということ。

この映画がはじまったとき、これは眠れるかもという予感があった。しかし実際は、眠れそうなのに決して眠れないという、不思議な体験をさせられることに。綱渡りのような緊張感が、最後まではりつめていた。

モノクロ撮影したネガを、カラーフィルムにプリントする「クロマティックB&W」という手法で創られた映像は、白黒ほど厳密ではなく、あちらの世界とこちらの世界の境目のように曖昧な色彩。

その静かな色彩の下で、映画自体はざわざわと、風のやまない森のように、つねにかすかに騒がしい。バスジャック事件、連続殺人事件、ひきこもり……。今風のキーワードが、次々と出てはくるが、それらとしっかり向きあって、登場人物たちを無責任に放り投げたりはしない。

少女が声を取り戻すことは、新しいはじまりを予感させる。しかし少なくても、主人公である元バス運転手・沢井が、「社会復帰する」ということには、決してつながらない。

主人公たちは、社会の内側に置かれてはいても、冒頭のバスジャック事件以来、どこかで社会の外へ出てしまっている。もしくは社会と呼ばれる場の周縁を、グルグルまわっている。

これからも、彼らの状況はきっと変わらないのではないか。むしろ悪化するかもしれない。そう確かに、「社会的に」は。

それなのに、抱いてしまうこの希望は、いったい何なのだろう。

この映画が最後に見せる「希望」は、私たちが営む社会よりも、おそらくもっと高いところにある。社会の内側にいながらにして、外側からそれを眺め、本当のことをすくいあげた映画にも思えた。

現代日本映画の流れにおいても、エポックメーキングとなる作品ではないだろうか。それなのに、上演時間の長さのためか、あまり観てもらえていない様子。なんだか悲しい…。

タイトルである「ユリイカ」が、ジム・オルークの同名曲に由来することもあり、咳の音さえも(!)、まるで音楽のように感じられる映画でもあった。

『水の中のナイフ』

水の中のナイフ

(原題)Noz w wodzie
1962年 ポーランド
監督/脚本:ロマン・ポランスキー
脚本:イエジー・スコリモフスキ、ロマン・ポランスキー、ヤクブ・ゴールドベルク
出演:レオン・ニエンチク、ヨランタ・ウメッカ、ジグムント・マラノヴィッチ
音楽:クリシュトフ・コメダ

この映画は、登場人物をたったの三人に絞った密室劇。

とはいえ、水上に浮かぶヨットというのは、本当に閉ざされた空間なのだろうか。空がひらかれている。湖の周囲には、少し泳げば辿りつける岸もある。しかし円形にひらかれた空は、逆に蓋となって、その中に彼らを、閉じこめてしまうのかもしれない。

いまや成功者であるアンジェイは、名誉と金は手にしたが、もう若さを失っている。その欠落を埋めるためか、湖に行く途中に車で拾った青年を、なぜかヨットに乗せる。

その青年は、若さがあっても金はなく、人生がすべてうまくゆかないと感じている。 そんな男たちの屈折とは無縁であるかのように、美しく自由に振る舞う妻クリスチナ。

無意識のうちに観客は、聖域のごときクリスチナを中心として、この奇妙な三角形が、音を立てて崩れるのを期待するだろう。 結局この作品は、その期待に応えてくれるのだが、そこにいたるまでの伏線は、静かに、それでいて魅力的に張られてゆく。

自分は泳げないのだと強調する青年。水上での、ナイフを用いた青年の危険な遊び。知識と富をひけらかすアンジェイと、彼の話をまるで聞かない青年。クリスチナが時折見せる奔放さ。アンジェイの嫉妬。

たった一日のことなのに、湖には、雨が降ったり晴れたりと、天候までもめまぐるしく変化する。まるで三人の心の内を、表わしているように。

この後、たとえ何が起ころうとも、朝が来れば、アンジェイもクリスチナも青年も、何らかの形で、この開かれた密室から出なければならない。それぞれの思いを抱え、ククリシトフ・コメダのジャズと共に、外へ踏み出して行く。

予想されたクライマックスは、一見平穏に幕をおろす。雨もやんだようだ。はじまりと同じように、夫婦を乗せた車は、湖畔を走りぬけてゆく。

『BLUE ブルー』

BLUE ブルー

1993年/イギリス・日本
75分
監督: デレク・ジャーマン
イメージ・フォーラムにて

映画と呼ぶにはどこかいびつで美しく、アートと呼ぶには映画であり続けたイギリスの映画監督デレク・ジャーマンの遺作。

1994年に、今はもうないシネ・ヴィヴァン六本木でこの作品を観てから、8年ぶり2度目の鑑賞となる。音が重要な要素の作品だけあって、シネ・ヴィヴァン六本木って素晴らしい音の箱だったんだなぁと、今更ながら気づかされた。イメージフォーラムの音響がどうこうということではなく、重低音が響くシネコンの音響とはまた違うという意味で。

映画がはじまると、スクリーン一面に、ただ「クラインブルー」だけが広がる。そしてそれがそのまま、終わりまでずっとつづく。

だから映像は、ないとも言えるのだけれども、動かないはずの青いスクリーンが、映写の加減で少し動くように感じられた。その青の背後でつづく過酷な内容の朗読と物音、そしてブライアン・イーノも参加した印象的な音楽が交じりあうにつれ、鑑賞者の錯覚もあるのか、瞬間ごとに青の印象も変わるように感じる。

今でもはっきり記憶しているのは、8年前の鑑賞の際には一面の青が美しく、画質もきれいな状態だったこと。現在では画面にかなりの細かい傷がついた。

絶え間なくあらわれる小さく黒い傷が、前よりもずっと目をチカチカとさせる。そしてそのことが、時の流れを強く感じさせた。

この作品の中でジャーマンは、「僕らの仕事は忘れ去られる」と言った。しかし彼がこの世を去ってしまってからも、作品の方は、傷がついたことで時の流れさえはらみ、創り手を失ってもなお進歩をつづける。まだまだ忘れ去られることはない。少なくても私は、これから何度でも、この作品を観たいと思うだろう。

内容の方は、「エイズという病を、社会現象としてではなく、内側から描いた作品」と説明されることが多い。本当にそうか、私には判断できないけれど、当時、まだろくな治療法も発見されてておらず、社会的な差別と戦っている病だったことを考えると、これだけこの映画が「個人的」であることは、やはり特別なことにちがいない。

エイズに限らず、死に至る病を扱った作品に、まわりの人間模様や本人の葛藤、治療の様子というものに頼らずに、こうやって病自体を描いた作品は、そう多くないんじゃないだろうか。

月日は流れて、当時は確実に死へ導かれたエイズも、発症を遅らせたり、治療ができるようになった。

この監督はもともと、自分にも他人にも、特に社会的な「権威」に対して、まったく容赦がない。包み隠さず、残酷なまま、私たちはそれを受取る。

だから言葉と音だけとはいえ、闘病のすさまじさ、マノノリティー側のやや自虐的な受けとめ方、慈善事業特有の偽善的残酷さ、そして絶望を通り越した不思議な明るささえ、ポエティックな部分も含めて、次々に胸へ突き刺さる。

そういう内容でも、ここで朗読される言葉は美しい。それも中身を伴った美しさで、ただセンチメンタルなだけではない。いや、もしかしたら、残酷な最期に向きあっているから、許される美しさなのかもしれない。

月日が流れるごとに、傷を伴う一面の青。今でもときどき耳にすることのある印象的な音楽。ちりばめられた効果音。色の名前に満ちた偽りのないテキスト。

観ているうちに、それらすべてが絡みあい、一気に何かでつらぬかれた気分になる。

私にとってはきっと、いつまでも忘れられない作品のひとつ。