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『ある愛の記録(愛と殺意)』

ある愛の記録(愛と殺意)

イタリア
115分
監督: ミケランジェロ・アントニオーニ
出演:マッシモ・ジロッティ,ルチア・ボゼー

アントニオーニ監督の長編デビュー作。日本初公開らしい。それにしても、いったいどこで観たんだろう?(記録しておくのを忘れました…)

冒頭から、モノクロームの画面が、こんなに美しいものかと、思わずひきこまれた。舞台となるミラノでは、冬の陽射しがまぶしいから、こんなにコントラストが鮮やかに出るのだろうか。

恋人同士が障害を越えるため、殺人を計画し、何かの拍子にそれを実行してしまうという話は、一見単純なようで、とても複雑。それだけの情熱を引きおこすものは、実は愛情なのではなく、ふたりの間に吹きはじめた秋風の予感だからなのかもしれない。

主人公の美男・美女ぶりが、ミラノの陽光のまぶしさの下で映える。しかしだからこそ、すべてが妙に危うい。探偵が探りはじめたのは、かつてふたりが、田舎へ置き去りにした誰にも言えない秘密。それをきっかけにして、何かが壊れはじめる。

ふたりの心の揺れうごきが、時には車が疾走するスピードにも乗せられ、 静かにこちらの感情をかき乱す。

結末は、予想できるようでできない。そしてその結末だからこそ、実にむなしい。

密会したり、よからぬ相談をした後、 左右にふたりが別れる瞬間、カメラが大きく後ろへひくと、まぶしい日差しの中に、普通の町の生活が映り、そのとたんこの非日常的なストーリーが、日常に溶けこんだ実にリアルなものに変る。

ところどころがゴツゴツとし、未完成な印象ながら、それだからこそ魅入られる作品。工夫がまだ見えてしまうところに、強い興味を持った。

『エスター・カーン めざめの時』

エスター・カーン めざめの時

原題:Esther Kahn
2000年/フランス・イギリス
監督:アルノー・デプレシャン
脚本:アルノー・デプレシャン / エマニュエル・ブールデュー
原案:アーサー・シモンズ
出演 サマー・フェニックス / イアン・ホルム / ファブリス・デプレシャン / フランシス・バーバー / ラズロ・サボ / ヒラリー・セスタ

「二十歳の死」「魂を救え!」などの作品で、圧倒的なリアルを感じさせてくれたアルノー・デプレシャン監督の最新作。

19世紀末のロンドン、仕立て屋のユダヤ人一家の様子からはじまるこの映画は、暗いけれども魅力的な映像で、短いシーンが円形に閉じてゆく。ちょっとした秘密を覗くような感覚。その簡潔でも要所に曲者の匂いがする展開に、全く目が離せなくなった。そして最後まで観て、あまりのことにしばし呆然…。

家族とさえうまくコミュニケーションを取れないエスター・カーンは、寡黙で気難しく、「芝居」に出会うまでは、すべての傍観者にすぎなかった。それが芝居に出会うことで、内面に秘めた情熱に従うように、トップ女優への階段を昇る。……と要約できそうなものだけど(「ガラスの仮面」?)、そうは問屋が卸さない。確かにめざめるのだが、このめざめ方は、凡人が手を出してはいけない類のもので。

ひとりの才能ある女優が誕生する過程は、今まで観たどんなサクセスストーリよりはるかにリアル。実際の演技シーンになると音声が全部消されてしまい、観客は想像することしかできなくなるから、逆にリアルに感じるのかもしれない。

そもそもエスターは、一般に考えられているサクセスを求めてはいない。多分考えてもみないだろう。結果的にそうなり、彼女を邪険に扱っていた母が、いきなり彼女をまわりに自慢しはじめたとしても。

この映画の原作であるアーサー・シモンズの本に、デプレシャンは前書きを書いていて、そのなかで「アーサー・シモンズに感激したところは、多くの作家が作品のなかの登場人物に自分を投影するのに対し、この作家は作品の登場人物の考え方に、ただひたすら耳を傾けることだ」とあった。デプレシャンも今回、それに成功している(と思う)。

エスターのキャラクターは、ある意味とても痛快。彼女には、現実を否定したとしても、幻想に逃げるだけの経済的な余裕はなく、他に守ってくれる人物を得るほど、魅力的とはいえずに極めて頑なだ。 しかしだからこそ、彼女はその瞬間を、確実につかまえて前へ進む。チャンスには臆せずに立ち向かい、夢想へ逃げずに全部を実現する。

彼女が欲求に従い、すべてをやり遂げていく姿を見ていると、思わず納得してしまった。しかしそれがことごとく、まわりの人間関係とかみ合わないから、事態はとんでもない方向へむかう。

まわりの人たちの行動は、ノーマルなのだと思う。しかし彼らの一種の「世渡り」が、エスターを中心に置くと、そらぞらしく見えてしまう。 彼女を教えて導く売れない名優も、エスターのようにガラス片をかみくだいてしまえば、もしやスターになれるかもしれず、なれないかもしれず…。

それにしても最後の舞台のシーン。あまりの過激さにもう目が釘付け。この異常事態に、舞台関係者が慣れているように感じられる点が恐怖。

最悪の状態で「できてしまった」というのは、優れた才能を生むのかもしれないが、幸せを運ぶとは限らない。

これだけ過激なのに、とんがった雰囲気はない。むしろ作り手の楽しさや軽やかささえ伝わってくる。

『STYLE TO KILL 鈴木清順レトロスペクティブー殺しのスタイルー』

STYLE TO KILL 鈴木清順レトロスペクティブー殺しのスタイルー

暗黒街の美女

1958年/日本/87分/モノクロ/シネスコ
出演:水島道太郎、芦田伸介、高品格、阿部徹、近藤宏、二谷英明、白木マリ
原作・脚本:佐治乾
撮影:中尾利太郎
美術:坂口武玄
音楽:山本直純

東京騎士団(ナイト)

1961年/日本/81分/カラー/シネスコ
出演:和田浩治、清水まゆみ、禰津良子、南田洋子、ジョージ・ルイカー、かまやつひろし、金子信雄
脚本:山崎巌
原作:原健三郎
撮影:永塚一栄
美術:中村公彦
音楽:大森盛太郎

テアトル新宿にて
2001年5月19日~6月1日

有名な『殺しの烙印』も『けんかえれじい』もあったのに、どうしてこんなにマイナーな方へ行く……。

『暗黒街の美女』は、出所してきたばかりのヤクザがおりまして、そのヤクザが自分の逮捕の折、撃たれて障害を持ってしまった弟分のために、隠しておいたダイヤを売ってその金を弟分にやりたいと、親分に相談します。しかしこの親分が、実は欲深かった。その欲深親分が、ダイヤを自分のものにしようと画策するところから、事件がはじまります。

映画中に多用されるマネキンの使い方、そして最後の激しい撃ちあいやトルコ風呂(懐かしい響き)と石炭。これではなんのことやらわからないでしょうが、これらの使い方がスカッとするほど絶妙です。

『東京騎士団』の方は、和田浩治(若い頃の石原裕次郎によく似ているが、もう少し華奢で繊細にし、ジャズっぽいリズム感と音感を備えました。ピアノすごく上手だなぁと思ったら、ジャズピアニスト・和田肇の息子さんだったんですね…)演ずるスーパー高校生がおりまして、大きなヤクザの組長だったお父様が亡くなられたため、急遽留学先のアメリカから帰国。高校生のまま組を継ぐことになります。

しかしその組には、善人を装って組をのっとろうとする悪の手が…。

和田浩治のスーパー高校生ぶりがすごい。ピアノはジャズをバリバリ弾いちゃうし、英語もペラペラなのに嫌味じゃない。スポーツはラグビーから剣道、フェンシングまで全部いける。しかし鈴木清順が非凡なのは、さらにそんな彼へ、理系の才能と舞踊の才能まで与えた点です。作っちゃうんですよ。ライトにしかける盗聴装置をひとりで。そしてお父様がやっていらした能を、ジャズ風にアレンジして踊る。まあ、高校生なのに、外車を自ら運転して学校に乗りつけるあたりは、この時代の映画ではお約束。

こうやってみると、確かに「リアリズムがいかにおもしろくないか」ということがよくわかります。

さらにこの主人公は、当たり前のことのように繰り返される談合を、これもまた当たり前のことのようにぶっつぶし、ヤクザ絡みの土建屋を「正しい建設業」へ変えようとする。さらに健気にも、南田洋子演ずる実に美しい義理のお母様の新しい恋を、見守って助けようと心に決めます。そして敵だとわかった他の組の娘と、固い友情をかわし、やがてそれが愛情に変わって……。

正しい。まったく正しすぎる。それでいて主役の和田浩治は、なかなかせつなく、複雑な表情を見せます。

「弱いものをいじめる奴は誰だぁ。そんな奴らはぶっつぶせぇ」と歌うかまやつひろしは、まだ長髪でもなく、かなり若いのですが、歌声も動作も、今と変わらず、かなり怪しい。

めちゃくちゃおもしろい作品だと思うんですが、再度観られる機会がこの作品だけはないのが残念。それにしても、これだからやめられません。この時代の日本映画鑑賞。

『穏やかな生活』

穏やかな生活

原題:Смиренная жизнь
1997年
日本・ロシア合作
カラー/ビデオ/76分
アレクサンドル・ソクーロフ
出演:松吉うめの 尺八演奏:古川利風
BOX東中野にて

奈良県明日香村に暮らすひとりの老いた女性。彼女が生活を送るテンポそのままに、ゆっくりとした時の流れで捉えられた異色のドキュメンタリー。

電気や暖房設備があったとしても、まったく無意味な築百年以上の日本家屋に、この女性は住んでいる。

その家屋をソクーロフが撮ると、高い屋根の梁をわたる風や、女性のまわりで微妙に動く空気の気配まで感じられる。

そしてもうひとつ、クローズアップとは怖いものだなと思った。何度も極端なクローズアップをすることで、この女性の佇まいの美しさ、おそらく本人も気づいていない鏡台の前に座ったときの色っぽさ、はいているモンペのようなズボンのきれいな柄などが、それだけでこの女性の素性を明らかにしてしまう。

つましい生活を送っているけれども、やはりこの女性は、旧家の女主人だった。紋の入った留袖を縫うことで、彼女は生計をたてている。その着物を縫う姿を、ずっと眺めていたくなる。

ところで、着物を縫うときに使う「こて」を、炭の灰の中に入れて温めたりしたら、灰が付いて着物が汚れると不安になった人、私の他にいませんか?  和裁ではないけれど洋服の方の専門家である叔母によると、あの灰は軽いので、全部すぐに飛んでしまうそう。灰になじみにない世代なんだな、私って……。

閑話休題。数日間滞在した旅人(ソクーロフ?)が、明日去るという日の夜、女性は留袖に身をつつみ、少し痛んだ屏風の前で、旅人を送るために唄を詠む。

お辞儀がまるで浮かない映画というのは、本当に久しぶり。こういう身のこなし方というのは、付け焼刃ではどうにもならないものなのだろう。

まわりにほとんど家のない山の上で、いままでの時代の澱をすべてかぶって送る生活は、当事者にとっては快適なのかもしれない。ただその反面、とてつもなく不便で厳しいもの。厳しさをわきまえず、その生活に戻ろうなどと、言うべきではない。

ソクーロフの映像が素晴らしかったのは、その生活のありのままをとらえ、礼賛も批判もないところ。ただ事実だけが、静かに伝わってくる。そして事実の合間からふいにこぼれる感情に、思わず涙さえこぼれた。

しかし一番ぞっとしたのは、この映画で描かれた生活を、自分が残らず全部知っているということ。地方出身だからなのかもしれないが、たぶん私の子供のころまでには、身近にあった生活なのかもしれない。

10年ひと昔と言うけれど。時の流れのあまりの早さと、失っていくものの多さに、背筋が寒くなった。

『ラ・ジュテ』

ラ・ジュテ

1962年 フランス
クリス・マルケル
(撮影)ジャン・シアボー
(音楽)トレヴァー・ダンカン
(出演)エレーヌ・シャトラン 他

1962年に描かれたモノクロームの未来は、いまだに色褪せていない。静止した画像が、その前後の時の流れを運んでくる。

それを観るのは、不思議な体験だった。

テリー・ギリアムの『12モンキーズ』が、この作品にインスパイアされて創られている(と当時報道されていたが、ギリアム監督自身がそれを否定)。しかし、その作品とこの作品とでは、タイムトラベルの質が、基本的に違っている。

『ラ・ジュテ』のタイムトラベルは、観念の旅。肉体の感覚が希薄で、とぎすまされたイメージだけが残る。それに対して、テリー・ギリアムは、人間の生(なま)の肉体に、タイムトラベルをさせた。そのダメージの大きさは、確かに映画から伝わってきた。しかし、私にとって、よりリアリティーを持って迫ってきたのは、不思議なことに、この『ラ・ジュテ』の方だった。

オルレー空港の送迎デッキで、男がひとり殺される。それを見て悲嘆にくれる女の表情。この映画の主人公は、子供のころに見たそのイメージから、どうしても逃れられない。

それは、残酷な光景のはずだが、主人公の中では、まだ平和だった時代の甘美な記憶のひとつとなっている。

というのも、第三次世界大戦後のパリは、他国に占領されている状態。しかも核汚染された地上には、もはや人間など住めやしない。

占領者は、未来と過去からエネルギーを得て、生き残ろうとしている。何人もの捕虜を、実験で死や狂気に追いやった挙げ句に、過去のイメージを定着できる主人公が、被験者に選ばれた。

捕虜たちは、夢さえも、占領者たちに監視されているのだ。

「記憶のスライド」という表現があるが、この映画では、静止画像が、スライドのようにつながれていて、モノローグにより語られることで、自分自身の未来の記憶を思い出しているような奇妙な錯覚に陥る。それは、核戦争の可能性が、この映画が創られてから30年以上たった現在も、まだなおあるからかもしれない。

※以下ネタバレ注意

主人公が、苦しみながら辿りついた過去は、本物の部屋があり、本物のネコがいる幸福な印象の世界。しかし、過去も未来もない「瞬間」だけの世界では、主人公とひとりの女性の周りにしか「時」がない。思い出とはどこかが違う、あり得ない過去。 絶望的な未来への希望。過去へのノスタルジー。全てを管理され、一歩外に踏み出せば生きられない今。それらを、時間軸を縦方向に上下移動しながら、この作品は描いてゆく。

ひとつひとつの場面に、モノローグの言葉にも、ほとんど無駄がない。主人公の過剰な感傷をのぞいては。 切り株の年輪の外側にある未来。時が止まっても変化のない博物館の剥製。唯一画面が動く、女性がまどろみから目を覚まし、目をひらくシーン。過去と未来が描く不思議な円環…などなど。

撮影したフィルムを、動かない映像に加工して、29分に凝縮されたモノクロームの映像は、美しくて残酷な物語を支えるだけではなく、それ自体が主題なのだと思う。

『ローザス・ダンス・ローザス』

ローザス・ダンス・ローザス

アートドキュメンタリーフィルム
監督:ティエリー・ドゥ・メイ
出演:ローザス(アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル他)
1997年 ベルギー
(移転前の)渋谷ユーロスペースにて
渋谷区桜丘町24-4-201 南口東武富士ビル内

この作品は、「ローザス」という女性舞踏団が、踊っているところを撮った作品。

もちろん舞台で踊っているのを、ただ撮影している…というのではない。学校のような建物(この作品のためにわざわざ建てたとか)を、隅から隅まで効果的に使い、踊るダンサーたちを無駄なくカメラは追ってゆく。

そもそもローザスのダンス自体が、見事なのだと思う。抑制されたミニマルな動きだが、それでいてダイナミック。選ばれた音楽との調和も、実に無理がない(よく考えれば、無理のある動きばかりなのに)。それをカメラがクローズアップしたりすることで、ダンサーたちのある種の色気が、映像のなかにひろがってゆく。踊りのなかで、ときどき肌があらわになるため、ではないと思う。 おそらく「映像に撮った」から、その魅力が持続して記録されるのだろう。

その結果、ダンスの抑制された動きと、映像を通しての色気と、作品に流れる物語じみたものが、見事にバランスよく拮抗した。それが良いことなのか悪いことなのかは、よくわからない。見やすくなったことは、確かだけれど。

ダンサーたちの肉体の躍動(要するにダンス)が終わり、ダンサーのひとりは、静止してから背中に握りこぶしをまわす。この作品のラストは、この握りこぶしのクローズアップ。ダンスは主役のようでいて、実は映像であることが、主役だったのかもしれない。

『ニル・バイ・マウス』

ニル・バイ・マウス

原題:NIL BY MOUTH
1997年・イギリス
(監督・脚本)ゲイリー・オールドマン(Gary Leonard Oldman)
(出演)レイ・ウィンストン(Ray Winstone)、 キャシー・バーク(Kathy Burke)他

名優ゲイリー・オールドマンが、監督・脚本をつとめた唯一の作品にして、他の誰にも撮れないような佳作。

私は本当の貧困を知らず、さみしい想いはたくさんしたが、両親にまるで愛情をかけてもらえなかったということもない。 それなのにこの映画で描かれた世界を、残らずみんなわかったなどと言えば、それは絶対に嘘になる。

ただ、共感を覚えたのが、幼い少女ミッシェルの後ろ姿。私自身、年の離れたふたりの兄がいる末っ子で、力の差がありすぎるから常に戦力外。けんかに巻き込まれない代わりに、家族にどんなことが起こっても、ただただ無力、という経験をしているからかもしれない。

常軌を逸した家庭の中で、予測のつかない両親の振る舞いや、そのほかの刺激が多すぎる事柄。それらを声もあげずに見つめる幼い少女の内面は、誰も知りようがない。

彼女の母・ヴァレリーに振るわれるのは、失業者の夫・レイの常軌を逸した暴力。アル中でヤク中の彼は、一度も父から愛情を受けた記憶がない。

そのためか、性格は自虐的で、ひどく曲がった愛情表現しかできない。妻のヴァレリーを愛しているのに、逆に傷つけてしまう。 あまりにひどい暴力に、我慢も限界に達したヴァレリーは、ある日家を出る。せめて彼女の誕生日のお祝いにとやってきたレイに、ヴァレリーはこう言い放った。

「あなたは自分自身を傷つけているのよ」
「もっとミッシェルに父親の愛を」

そのときのレイの困惑したような顔が、忘れられない。一度も父に愛された記憶のない男が、自分の娘に愛をそそぐ。それはきっと難しいことだろう。 しかし暴力を受けて、頭から爪先まで醜く腫れあがり、さらに流産までしたヴァレリーは、それ以上につらいのだ。

※以下、ネタバレ注意

ヴァレリーの弟・ビリーは、強度の麻薬中毒。きわどい日常を送っている。家族の目の前で麻薬を注射する…という醜態までさらす始末。そんなビリーだが、犬が大好き。ファッキングばかり口にする彼が、ラブリーという言葉を使ったのは、知り合ったかなりヤバイ男が抱いていた小犬を、目にしたときだった。

しかしビリーの心の奥には、泥棒だった父が、ある日彼の飼っていた犬を、家族の留守の間に殺してしまったという記憶が、くさびのように打ちこまれている。

なにもかもが悲劇的な状態でも、その中にわずかでも笑いを見つける彼ら。やけくそ気味の笑いとともに、どうにも良くなりようのない日常はつづく。強い刺激のなかに身を置きすぎて、一瞬でも平穏な時が訪れると、幸せのように彼らが錯覚してしまうことが何よりも怖かった。

それらをただ、静かに見つめるミッシェルの瞳に映る風景は、彼女の心に傷を作りながらも、案外淡々と流れているのかもしれない。なぜならそれらは、彼女にとっては、当たり前の日常だから。

ぐるぐる廻るだけで、ひとつも好転してゆかない親子のつながり。そこからせめてミッシェルだけでも、抜け出てくれることを思わず祈った。

『チャパクア』

チャパクア

1966年アメリカ
俳優座トーキーナイトにて
(監督)コンラッド・ルークス
(撮影)ロバート・フランク
(オリジナル音楽)ラヴィ・シャンカール
(音楽アドバイザー)フィリップ・グラス
(出演)ジャン=ルイ・バロー, ウィリアム ・S・バロウズ ,アレン・ギンズバーグ,オーネット・コールマン

純粋さがこうじて、真っ黒になってしまった。そんな印象の映画。

麻薬中毒を克服するため、怪しげな病院にやってきた主人公。病院に来たというより、収容所に入れられるという趣き。だいたい、病院の医師が、バロウズやギンズバーグじゃ、余計に悪くなりそう…。

麻薬の幻影が永遠と続くが、さすがにこの面子だけに、センスの塊でかっこいい。訳がわからなくても観ていられる。一見の価値はあるのだけれど、この後につづくものに、与えるものがなにもないという感じ。行き止まりの完成というのだろうか。

生バロウズ・生ギンズバーグ・生コールマンが見られます。

麻薬で、「悪夢」以外をみるのは、難しいみたいだ。