『福島県立美術館「常設展」』

福島県立美術館「常設展」

福島県立美術館ホームページ

久々に福島県立美術館へ。

調べもせずに行ったので、企画展は残念ながらお休み。十数年ぶりに常設展を観ることにした。

中高生時代、この美術館の建物や目の前の銀杏並木、その上に広々とひろがる青空が好きだったので、作品だけでなく、美術館全体の雰囲気を感じるためにも、企画展のない日でよかったのかも(ちょっと負け惜しみ?)。

ここの常設展は、目玉がアンドリュー・ワイエス、ベン・シャーン、関根正二、斉藤清と、なかなか通好み。

若い頃は、あまりワイエスに興味がなかったけれども、年齢を重ねて色々と考え方が変わったせいか、人間味溢れる光と影のリアリズムに、すっかり魅せられてしまった。

展示されていたのは、『ガニング・ロックス』『ドイツ人の住むところ』『そよ風』『冬の水車小屋』の4点。『松ぼっくり男爵』は、どこかに貸し出し中かな?

スティーブン・キングに、『悪霊の島』というアート界隈を扱った長編ホラー小説があって、その中でワイエスについてこんな風に書かれていたことを思い出した。
「さらにアンドルー・ワイエスのある種の作品――〈クリスティーナの世界〉ではなく室内画だ。光が正常でありながらも異常な客間。絵では、光が二方向から射しているかに見える」

同じ絵ではないから全く同じではないが、やはり室内画の絵を通して、同じように「正常なようで異常な光」を愉しむことができた。キングの記述力はやっぱり正確。

『アンジェリカの微笑み』

アンジェリカの微笑み

原題 O ESTRANHO CASO DE ANGELICA
監督・脚本 マノエル・ド・オリヴェイラ
2010年
ポルトガル、スペイン、フランス、ブラジル
97分
公式ホームページ

オリヴェイラ監督101歳、「晩年」の作品。でもこれ、最後の作品じゃなく、最後から二番目の作品ですからね。そして、下手をすると若い監督の作品より、はるかに瑞々しい。感性の若さというのは、実年齢ではなく、持って生まれたものなのだとよくわかります。

若く、神経質そうな写真家の主人公が、夜中にいきなり「亡くなった娘の写真を撮ってほしい」と、屋敷に連れて行かれます。ユダヤ教徒の彼ですが、キリスト教徒の若いお嬢さんの死を、痛ましく思う気持ちには変わりありません。

青い椅子に横たわる死者は、まるで眠っているかのよう。ファインダーの中で、死者はふいに蘇り、主人公に親しみ深い笑顔を見せます。それ以来主人公は、この「アンジェリカ」という娘のことが、ひとときも忘れられなくなり…。

夢か現か、生者の世界か死者の世界か。そのあわいにあるような、あまりに美しく、繊細な作品。

幻想の中(いや、実はこちらも現実なのかも…)で、恋人と空を飛ぶ主人公の姿は、子供の頃父の書斎で観たシャガールの画集の一枚の絵を思い出させます。あの独特な雰囲気に、映像でここまで迫れるとは思ってませんでした。しかもモノクロームで。

生きることが、あまり上手でない人の中には、生きているうちから、あちらの世界に半分足を踏み入れた感じの人がたまにいて、生きることにしがみつかない彼らは、やはり思いのほか早く、生を簡単に手放してしまう気がします。

監督の他の作品の多くからは、生きることの喜びが感じられていたので、この作品では死が強く意識されていることに、少しさみしい気持ちにもなりました。でもそれこそが、理想なのかもしれませんね。死へといつのまにか、確実に近づいていく。

映画を撮る技術やスタイルこそ、継承することができても、作家の持つ感性や美意識の方は、本人が亡くなると同時に消えてしまう。過去の作品を観れば、その中に残されているとしても。

亡くなった106歳は大往生でしょうが、ファンとしては、二度と手に入らないものを手放したさみしさで、胸にぽっかり穴があいたままです。

『現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展(ヤゲオ財団コレクションより)』

現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展(ヤゲオ財団コレクションより)

東京国立近代美術館にて
会期:2014年6月20日(金)〜8月24日(日)
10:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日:月曜日(7月21日は開館)、7月22日(火)

「ヤゲオ財団」(台湾の巨大電子機器メーカーの社長が運営)所有作品の展覧会とのことなので、要するに私財で集めたコレクション。

ゲルハルト・リヒター、アンディ・ウォーホール、フランシス・ベーコン、マーク・ロスコ、そして中国・台湾からは蔡國家にザオ・ウーキー、日本の杉本博司、さらには美術への功績も作品も大きいアンゼルム・キーファーまで、そうそうたる面子の作品が、所狭しと軒を並べる。

そんなビックネームばかりではなく、評価が上がるのはこれからという作家の作品も、主にアジアを中心に集められていた。

この展覧会のおもしろいのは、「コレクター目線」と「美術鑑賞目線」の両方から、作品を観られるところ。作品それぞれに、市場価格と美術界での評価を対比する解説がつけられ、参加したいと思えば、50億という「仮想通貨」をもらって、自分好みのコレクションを作ることもできる。

例えば、教科書にも載っている日本人にとってはビックネームの藤田嗣治より、2011年に亡くなってから人気がうなぎ登りのサイ・トゥオンブリーの方が、はるかに市場価格が高いなど、絵画市場での評価は、目まぐるしく移り変わっている。

それにしても、これらの作品を普通に家に飾っているとはすごい。家にどう飾ってあるかといいう模型も、同時に展示されていた。風呂に入りながら絵を観るために、湿気から守って絵を飾れるシステムにはちょっと感激。

などと脳天気に観ている私とは対照的に、浅田彰氏のこの展覧会への視線は厳しい。展示の仕方やタイトルの付け方、アートマーケットでの評価をキューレーター側での咀嚼なしにそのまま使うことへの危機感、他作品に比べて代表作品とは言えないマーク・クインの「ミニチュアのヴィーナス」を展示の目玉としてポスターに載せる感性についてなど、罵倒のごとく苦言を呈している。

興味のある方は、こちらからどうぞ。
REALKYOTO – CULTURAL SEARCH ENGINE » 「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である」か?!

『悪童日記』

悪童日記

2013年 ドイツ・ハンガリー合作
原題:LE GRAND CAHIER
監督:ヤーノシュ・サース/原作:アゴタ・クリストフ「悪童日記
出演:アンドラース・ジェーマント、ラースロー・シェーマント、ピロショカ・モナムール
フォーラム福島にて

原作は、五十歳を過ぎてからフランス文壇にデビューした亡命ハンガリー人女流作家アゴタ・クリストフのデビュー作。乾いた簡潔な文章、美しい双子、田舎での両親と離れての過酷な生活、何もかもが狂った戦争末期の社会。読者はそれを、双子の書いた「真実しか記さない」はずの日記として読む。

そう謳ってあっても、そこには虚実がちりばめられ、読者はどこかで、日記の全てが真実という訳ではないと薄々感じながら読み進める。そもそもこの本は、作者が移住したフランスの言語で書かれ、たぶんあの国だなぁと想像はできるけど、舞台となった国も戦争の敵国の名も、どこにも記されていない。

とはいえ、映像にすれば、話す言葉や衣装で、それはだいたいわかる。国はハンガリー、支配しているのはナチスドイツ、解放軍はソ連。

あらゆる苦難を潜り抜けただろうアゴタ・クリフトフに比べると、この監督の描く世界は、少しナイーブで感傷的。しかしそのお蔭で、カルト映画になることから逃れ、残酷だけど美しく、奥深い作品に仕上がっている。

親の言いつけを守り、聖書に読み書きを学びながら、日記を綴る双子には、いびつでもはっきりした倫理観がある。しかし彼らが預けられた名うての悪女である祖母「魔女」が、それほどの悪人には思えなくなってくるほど、戦時下の「普通の社会」は狂気に満ちていた。その中で彼らの倫理観を発揮すれば、結末はたちまち残酷になる。

戦争中なら、このくらいのことは、実際にあったかもしれない。原作と違い映画の方は、戦時下にあったかもしれない現実と感じられ、観終わった後気持ちが塞いだ。

何より印象深いこの双子。美少年だからというより、この年齢で、こんな目ができるのがすごい。地獄の縁を覗いたことのある眼差し。それでいて、瞳の奥に秘めた感受性や優しさも醸し出され、忘れ得ぬ魅力に満ちている。

『天のろくろ』

天のろくろ

アーシュラ・K. ル=グウィン 著
脇明子 訳
(サンリオSF文庫 1979年刊行)

1978年から1987年のあいだ存在していたが、いまはもうない『サンリオSF文庫』の一冊。貴重な品を貸して頂いた。

普通ならサンリオというとキティちゃんとかなんだろうけど、私にとっては中高生時代愛読した『詩とメルヘン』の出版元。なので出版社があるとは認識していたが、田舎育ちの悲しさ、SF文庫の存在は結構最近まで知らなかった。

職業病で、本編を読むより前に、巻末にある同文庫のラインナップを覗いてしまう。ル=グウィンの他にも、フィリップ・K・ディク、ウィリアム・バロウズ、レイ・ブラットベリと、ウキウキしてくるような人選。読みたい作品も多い。でも残念ながら、この文庫シリーズは、もはや存在しない。

ル=グウィンは、『ゲド戦記』の作者として、日本では特にジブリアニメを通しておなじみ。他にも『闇の左手』『所有せざる人々』(どちらもハヤカワ文庫SF)などたくさんの代表作があるが、個人的には、絵本『空飛び猫』(講談社文庫)の作者という方が馴染みが深い。

宮崎駿氏は、80年代から『ゲド戦記』シリーズを作品化したくて交渉してたそうだけど、ル=グウィンときたら日本のアニメすら観たことがなく、最初は断ったのだとか。数年後に『となりのトトロ』を観る機会があり、映像化するならこの監督に撮ってもらいたい考えを変えた。紆余曲折の末、監督が息子の吾朗氏に移ってしまったのは、ご存じの通り。

トトロの世界を評価する考え方は、ル=グウィンの生い立ちを考えるとなんとなく理解できる。父は著名な文化人類学者。母は、その父が深く関わったインディオ「イシ」という男性の評伝を書いた人物。

そのあたりは、池澤夏樹編集の河出書房版『世界文学全集 近現代作家集Ⅲ』にも載っていた鶴見俊輔の評伝「イシが教えてくれたこと」に詳しい。思想家として著名な鶴見氏なので、難しいのかなと思っていたが、文章が平易で驚くほどわかりやすい。とてもおもしろかったので、ル=グウィンに興味を持つ方ならぜひ。

この作品は、そのル=グウィンよる長編SF小説。突飛とも言える発想が、明快な文章と深い洞察に支えられている。

ある日、夢をみると、その夢が本当になり、現実を書き換えてしまう能力を与えられてしまったオアという青年が主人公。夢をみないように、睡眠薬に頼り続け、ついに薬を不法に取得したかどで、「強制治療」に送りこまれてしまう。

ヘイパーという博士に、暗示をかけてもらうことで、夢を制御しようとするのだけど…。

現実を変えてはいけないと考えるオアは、みる夢の効果をなくすことを望むが、ヘイパー博士は、夢の効力を使って、世界を「優生学的に優れたよりよい世界」にしようと考え、オアを利用し続ける。そのたび世界は、めまぐるしく変わり続け、オアの潜在意識や無意識の抵抗が、世界を混乱に陥れる。

人間の力で、自然や社会をねじ伏せようとするヘイパー博士の野心は、ある種欧米的。東洋人の端くれである自分は、本能的に、あるものはあるがままにしておく方がいいと感じるオアの姿勢の方に、どうしても共感してしまう。

あとがきによると、「天のろくろ」という作品タイトルは、『荘子』英語版の「誤訳」からつけられたのだそう。たとえ誤訳だったとしても、訳者も言っている通り、このタイトルから紡がれる世界だからこそ味わい深い。

どんなに世界をよくするためであっても、人工的に手を加えれば、変えるつもりのなかったどこか見えない部分も変わってしまい、世界はどんどんいびつになる。

この本が訳され、出版されてもう35年がたったことになるが、当時より今の時代の私たちの方が、このことを痛感できるのでは?

もしどうしてもいじらないといけないなら、オアのような人物に制御してほしい。ヘイパー博士ではなく。でも実際は、そううまくいかない。

自分のふるさと福島が、東京電力営業の福島第一原発の事故で、散々踏みにじられたのを目の当たりにしたせいか、特に強くそう感じる。

そういったストーリーだけでなく、丁寧に編まれた細部もこの本の魅力のひとつ。久しぶりに読書のおもしろさに突き動かされ、ページをめくる指が止まらなくなった。

『横浜トリエンナーレ2014』

「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」

2014年8月1日(金)~11月3日(月・祝)
横浜美術館、新港ピア
横浜トリエンナーレ2014公式ホームページ

東京在住だった頃は、ふらりと出かけていた横浜トリエンナーレに、今回は福島から新幹線に乗って参戦(?)。体力には自信がなく、日帰りはちょっときつい…。

気になった作品を、無責任にいくつか。感想も無責任に。

会場に入る前、駅ビルでギムホンソックの『クマのような構造物』に遭遇。クマとも黒いごみ袋ともつかない姿に目は釘づけ。タイトルのごとく、この作品が本当に「クマと構造物」のど真ん中に位置しているのがすごい。

まずは横浜美術館の方へ。マイケル・ランディの『アート・ビン』は、希望者が「失敗したアート作品」を持ち寄って、放り込むという「失敗作の墓場」。この墓場、とにかく巨大なんですよ。階段を登って、放り込むのはさぞ心地よかろう。何よりも、あの衝撃に耐えられるガラスの強さがすごい(そこ?)。

イザ・ゲンツゲンの『世界受信機』は、コンクリート片で作られたラジオ。他のミニマルな作品が、沈黙を装いながらかえって雄弁なのに対し、このラジオからは振っても叩いても何の音も聞こえてきそうにない。電波を受信するどころか、逆に音を閉じ込めてしまいそうな灰色の塊。

十字架の中に巨大な砲弾を配したエドワード&ナンシー・キーンホルツの『ビッグ・ダブル・クロス』の印象は、非キリスト教圏に生きる私達にとっても衝撃的。美しいのがまた罪深い。

どんな優れた作家でも、戦意高揚のために使われてしまえば、もれなく愚かに見えてくる『大谷芳久コレクション』と、意見を言うことが極めて難しい戦時中にもかかわらず、軍による芸術利用を批判した松本竣介の書簡は、鑑賞者全てがふたつの視点から物を捉えられることを前提にしたなかなか難しい展示。

横浜美術館の駐車場を、もっと殺風景な地下室という作品に変えてしまったのが、グレゴール・シュナイダーの『ジャーマン・アングスト』。天井の低さ、コンクリートの打ちっぱなし感、裸電球の薄暗さ、汚水のプールと狭い通路。すべてが揃いヤバイ場所に入り込んだ感満載で、タイトル通り不安を感じつつも、久しぶりに会えた友だちとふたり、謎のロッカーを開けたり閉めたりしながら、思わずはしゃいでしまった。人が不安を感じ、鬱屈した感情をため込む場所は、国や人種が違おうとも、同じような環境なのかもしれない。

場所を新港ピアに映すと、やなぎみわの『演劇公演「日輪の翼」のための舞台移動車』がお出迎え。トラック野郎のトラックを、もっと巨大に、キュートにした感じで、今回の展示作品の中でも、一番のハッピー感を演出。ただ、この作品にしろ、大竹伸朗の『網膜屋/記憶濾過小屋』にしろ、70年代東北生まれの私にとってすら、こういった土着の雰囲気にあまり心理的接点がなく、少し戸惑いも覚えた。身近なはずなのに遠いというか、何というか。いっそのこと、違う文化圏の出身だったなら、もっと素直に観られたのかも。

土田ヒロミの『煙崎宏 撮影拒否』は、「原爆の子」に広島原爆の被爆体験を寄せた被爆者たちを、その後取材して撮影した作品。私の記憶違いじゃなければ、60年代と最近…の1人2枚ずつだったと思う。60年代には取材拒否していた人が、年老いてからは穏やかな表情で写真に映っていたり、意志を持って取材に応じていた人が亡くなり、遺影となって奥さんと共に写真におさまっていたり。爆風と高熱にやられた遺品も、整然と写真におさめられ、抑えた作風だからこそ、複雑な感情が押し寄せてきた。

日本初紹介というイライアス・ハンセン『見かけとは違う』は、フラスコやビーカーのような実験道具に木や金属という奇妙な取り合わせで、快適な「プライベート空間」を創造。ピンクや黄色、青というちょっとチープな照明が心地よい。よく考えるとかなり変だけど、この部屋に住んでみたくなる。

ギムホンソック『クマのような構造物』

マイケル・ランディ『アート・ビン』

グレゴール・シュナイダー『ジャーマン・アングスト』

土田ヒロミ『煙崎宏 撮影拒否』

『演劇公演「日輪の翼」のための舞台移動車』

イライアス・ハンセン『見かけとは違う』

祝! ノーベル文学賞受賞

 唯一うちにあるパトリック・モディアノの本『暗いブティック通り』(白水社)は、取り合いの末に家族の手に渡ってしまったので(「どうせ今仕事で読めないんでしょう?」「うん、そうだね…」)、表紙だけパチリ。なんと翻訳の平岡篤頼先生サイン本。

この本が出た頃は、いわゆる韓流ブームがはじまったばかり。それとこの本を結び付けて、日本ではメジャーとは言いがたい作家の作品をなんとか売ろうとする涙ぐましい努力が、本の帯から伝わってきます。

曰く、「冬ソナはここからはじまった!」

ドラマ「冬のソナタ」の原作者が、この本に影響を受けたそうで、一度も観たことがなかった冬ソナに、今頃興味が出てきました。ノーベル文学賞受賞でこの本を買った人たちが、帯を見て絶句する姿が目に浮かぶよう(もう変わっているのかな?)。

モディアノ作品を出している出版社は、水声社、白水社、作品社、そして集英社だそうで、Twitterでは、「電話が途切れない!」という作品社のうれしい悲鳴ツイートを、国書刊行会が「くそーおめでとうございます!w」とリツイート。

作品の品質は変わらないのに、取り巻く環境が変わるだけで売り上げが伸びる。そんな文学作品ならではの大騒ぎに、何だかニヤリとしてしまいました。

ところで、久しぶりにこちらを書き始めました。やはりSNSよりも、反応がわかりにくいブログが一番気楽です。

本の表紙本のサイン

『苦役列車』

苦役列車

作者: 西村賢太
出版社/メーカー: 新潮社
発売日: 2011/01/26

西村賢太の『苦役列車』を読了。この主人公よりもはるかに優遇された人生を送っているはずなのに、その「劣等感」に妙な親近感を感じてしまうのはなぜ?

父親が性犯罪を犯したことがきっかけで、人生の落伍者になりかけている二十歳そこそこの青年が主人公。主人公は、すぐにお金をもらえる日雇いの仕事に慣れてしまい、そこから這い上がることができなくなっている。お金がなくなると、無一文のまま日雇い仕事の送迎バスに乗るような行き当たりばったりの毎日。

アウトサイダーを気取るほどの余裕もなく、社会を批判するほど高潔でもない。本当は「上の世界」に憧れながら、自分はここにいるしかないのだと言い訳し続ける情けない日々。

最近は私小説と銘を打って自分を題材にして書いても、私小説になり切れない作品が多い中、よくも悪くも見事に私小説の系列。

自分を美化することも正当化することもない登場人物を描ける。そんな作家として必要な資質を、持っている作者だと感じた。

『マリオ・ジャコメッリ写真展 THE BLACK IS WAITING FOR THE WHITE』

マリオ・ジャコメッリ写真展
THE BLACK IS WAITING FOR THE WHITE

東京都写真美術館にて
2013年3月23日~5月12日

仕事の手を一度止め、最終日の閉館間近に滑り込みで『マリオ・ジャコメッリ写真展』。

展示枚数が多い写真展だと、途中で疲れて写真の上っ面を視線が滑るだけになる堪え性のないタイプなのだけど、この写真展ではそんな瞬間は一度もなかった。

作品に吸い付くように、視線が離れない。

もうすぐ命が尽きる人ばかりがいるホスピスや、闘病末期のキリスト教信者が最後の救いを求めて押しかけるフランスの聖地ルルドなど、死との境にある被写体も多くいる場所が舞台で、抱えるテーマは重いが、ひきつけられてやまないのは、「写真そのもの」が持つ魅力のため。

白黒の素晴らしい写真や映像を観ると、カラー写真よりむしろカラフルと感じてしまうことがある。黒から白、逆に白から黒の間の数えきれない色のグレースケールに、神経が研ぎ澄まされていくのを感じる。

残念ながら、写真について語る言葉や技量のない私には、感じたことをただ並べることしかできないのがもどかしい。

ジャコメッリのカメラのファインダーを通すと、実際に映った光景の裏側にある秘めた真実が浮かび上がってくる。

たとえば、ルルドを訪れる瀕死の巡礼者より、もはや死を受け入れたホスピスの人たちの方に、わずかに残された「生」がいきいきと感じられたり、幸せの絶頂のはずの恋人達が被写体なのに、すぐ壊れてしまいそうな儚さを感じたり。

イタリアの貧しい家に生まれながら、独学で写真を学び、印刷業を営んで生計を立て、最後まで「アマチュアカメラマン」の立場を通したジャコメッリ。

シュールな作品の方も有名で、強いコントラストを感じる写真の多くは、どんな重いテーマを扱っていてもどこかスタイリッシュで現代的。それなのに写真特有の「古めかしさ」や詩情の方も、同時に備えている。

いつもながら時間に追われての鑑賞だったが、できるなら一枚一枚もっと時間をかけて眺めたかった。こういう写真展を観ると、美術や写真の関係者だけはなく、いろんな職業や立場の人の感想を聞いてみたくなる。

月の見える坂道

空に赤い月。真夜中に私はひとり、広すぎる坂を歩く。月は満月でも三日月でもなく、中途半端な幅。都会の空が似合うペーパームーンと違い、甘納豆のようにコロンと丸い形。
ただ無我夢中で、坂道を登る。月の斜め下には、逆向きに欠けた月がもうひとつ。双子の甘納豆だなと思う。坂はとても急で長く、どこまで行っても途切れない。
かなり高い場所まで来たらしい。左右に見えるのは、ただ星空ばかり。振り返って見た下界には、街の灯が煌めく。空の星よりも明るく。
坂はさらに急勾配になり、息があがって体がつらい。不安にもなってくる。自分の荒い息を聞きながら、(きれいな景色だな。ブログに載せなきゃ。写真に撮れないのが残念)と、景色とは似合わない妙に現実的なことを思った。
坂はまだ終わらない。体力も限界に近づいてきたのに、傾斜はきつくなるばかり。そそり立つ壁のようになった坂の斜面になんとかしがみつき、今や道のコンクリート肌が眼前にまで迫る。
負けないで、もうひと息。
私は坂に手をついて、斜面を這うように進む。双子の月ひと組だけが、私を見守っている。
精も根も尽き果て、震える手をようやく前に伸ばす。ブーツの爪先も滑り、もはや地面をとらえられない。
深呼吸ひとつ。がむしゃらに伸ばした手が、何かをつかんだ。それは分厚い板の断面のようなもの。
両手でその断面をつかみ、最後の力振り絞って、腕の力だけで全身引き上げる。
グンと体が持ちあがり、どうやら私は坂の「頂上」に辿りついた。