『予告された殺人の記録』

予告された殺人の記録

作者:ガブリエル・ガルシア=マルケス
訳:野谷文昭 
出版社:新潮社

コロンビアの作家G.ガルシア=マルケス作『予告された殺人の記録』を読了。マルケスは、焼酎の名前にもなっている(えっそこ!?)マジック・リアリズムの傑作『百年の孤独』でもおなじみ。

てっきり再読だと思っていたのに、読めども読めども、何も思い出せない。どうやら小説の方は読んでなくて、映画しか観ていなかったらしい…。そしてあまりに昔で、映画の方も内容すら忘れている。

ある片田舎で村を上げての盛大な婚礼儀式が行われ、次の日に、ひとりの男性が殺される。しかしそのことは殺す側の双子が、誰かに止めてほしかったからか大っぴらに周囲に予告済み。本人と家族以外、村中の誰もがそのことを知っていたのに、偶然や無意識の悪意、逆に善意が裏目に出るなど不運が重なり、殺人は行われてしまう…。

『百年の孤独』とはまた少し違って、この作品は現実にあった事件を題材にしている。殺された男性の友人を話者として、一見するとルポルタージュ風に語られるが、こういう現実をモチーフにした短い小説の方が、マルケスの想像性の豊かさ、伏線の貼り方の見事さなど、小説の書き手としての圧倒的な「うまさ」を感じることができる。だから最後までルポルタージュ風に進んでも、十分読ませるのだけれど、ため息が出たのは現実とも幻想ともつかない最後の殺害シーン。あまりにも美しかったので。

コロンビアの田舎町に、私は行ったことがない。でも、地方に生まれ育ち、そこに適応できなかった人間のひとりとして、悪意がなくてもひとつの共同体が、よそ者や異端者を無意識のうちに葬っていくシステムは、わかりたくなくてもわかってしまう。胸の奥に眠っている複雑な感情を引き出される気分で、息を殺して一気に読み終えた。

マルケスもこの作品を、自らの「最高傑作」とみなしていたのだとか。読みやすくて短いのでマルケス入門書としても最適な一冊。

『アラブ・エクスプレス展』

『アラブ・エクスプレス展』

2012年6月16日(土)-10月28日(日)
森美術館にて
森美術館内特設リンク先

先月末、森美術館で行われた『アラブ・エクスプレス展』を、駆け込み鑑賞。ネタ的に購入したのが写真のキャンディ。

作家が米軍のイラク侵攻の後に、アメリカを旅したとき、彼がイラク人だとわかると、何人かのアメリカ人から「I’m sorry」と言われたのだとか。このキャンディは、そのときの驚きを、「I’m sorry」をネオンで囲むことで表現したというアーデル・アービティーンの作品にちなんでいる。

今までも、アラブ諸国出身の作家の作品は、単体で観たことはあった。でも、これだけ色々な国の作品を、一気に観られるのは、かなり珍しい体験。アラブ諸国とひと口で行っても、おなじみのイラン・イラク・サウジアラビアはもちろん、比較的自由なトルコ、開発バブルでどんどん景色が変わっているドバイまで、その文化、歴史的背景、近代化のレベルは、まさに多種多様。当然そこから生まれる作品も、似たものはひとつもなく、使う手法もさまざま。

悲しみを癒すためのやさしや繊細さ、造形や色彩の美しさに感動し、戒律が厳格で融通がきかないというステロタイプのアラブのイメージを打ち消してくれた展覧会ではあったのだけれど…。

親近感を抱くと同時に、東日本大震災を体験した後でもなお、紛争や戦闘が永遠と続く地域とは、決定的な違いがあるのだと感じもした。

個人的には、どんなに絶望的な状態でも、ユーモアを忘れない作品に、特に心惹かれる。先述の「I’m sorry」もそうだし、実際の戦闘中に戦闘機からまかれたビラを、ポップでキュートな画風に作りかえることで、人々の深い心の傷を塗り替えようと試みた作品や、言い訳ばかりしてちっとも作品を仕上げない美術作家についての映像など。

ちなみに「I’m sorry」キャンディーは、なかなかおいしかったです。

『ヴァージニア』

ヴァージニア

2011年/アメリカ/89分
監督・脚本・製作:フランシス・フォード・コッポラ
出演:ヴァル・キルマー、エル・ファリング
アップリンクにて

トム・ウェイツのナレーションではじまるこの映画の舞台は、塔の八面についた時計が全部違う時刻を刻むいわく因縁のある田舎町。

本屋もないその町に、自分の本を売りに来たのは、アル中の三流オカルト作家のホール・ボルティア。娘を事故で亡くして以来、思うように作品が書けずに生活も困窮。旅先に来てまで、妻から出版社に前借りをするよう強要されている。

町では、数日前に殺人事件が起きていた。身元不明の少女が胸に杭を打たれて殺されるという事件。まるでヴァンパイアを封印する儀式のように。その殺人事件を元に、一緒に小説を書かないかと、ボルティアに持ちかけてきたのが、小説家になる野心を持つ得体の知れない保安官。

その晩、夢に導かれるようにV.(ヴィー)と名乗る少女に出会ったボルティアは、チカリングホテルという場所で、かつて牧師が子どもたちを斬殺する事件があったことを知る。そして幻のように現れた敬愛するエドガー・アラン・ポーに導かれ、ふたつの事件を元に人生をかけた傑作を書こうと思い立つのだが……。

やがて話は、夢か現実か、さらには小説の中の話か、よくわからなくなりつつも、ポーの道案内でなんとか前に進んでいく。徹底した美意識に彩られた映像やディテールの積みかさねが、とにかく美しい。困ったな…大好きです。

ゴシック・ミステリーと銘打たれているのも納得だけれども、この作品の本質は、ボルティアの心の中の罪悪感にある。作品はやがて、今のような三流オカルトではなく、もっと良い作品を書きたいと思い始めたボルティアの作品創作の手順と重なってくる。ポーは殺人の顛末を教える謎解きの名手としてだけではなく、哀切と恐怖に彩られたミステリーや詩作の文学史上に輝く星として、作家・ボルティアの作品も導き出す。ここからがおもしろかった。

妻を失くして以来、その妻の面影を、名前を変えて繰り返し作品に登場させたというポー。だからこそ、愛する者を失ったときの心の傷にも敏感なのかもしれない。事件の謎解きが進むにつれ、作品を完成させるために踏み込むべきは、娘を亡くした事件のことだと、ポーはボルティアに説く。

謎の少女ヴィーや、川向うにたむろする不良集団のリーダーでボードレールを暗唱している青年のキャラクターや化粧、ファッションから見える巨匠コッポラの美意識の高さは沸点レベル。ただ、個人的に一番笑ったのは、ボルティアが作品のストーリーを書き出すときに、「霧の湖」から逃れられなくなり、何を書いても霧の湖の話になってどんどん酒量が増えるシーン。この作品と、小説を書くという行為は、切り離して考えられない。

ミステリーの形態なのに、わずかなユーモア以外は、逃れられない悲しみへの哀切に満ちている。それは、ミステリー小説の祖であると同時に、「死と憂鬱の美学」に彩られた完璧な詩を無数に作ったポーへのオマージュ。

ポー自身も、この映画の美意識は、きっと好きなんじゃないかなと想像した。

『ミッドナイト・イン・パリ』

ミッドナイト・イン・パリ

原題:Midnight in Paris
製作年:2011年
スペイン・アメリカ合作
監督/脚本:ウッディ・アレン
出演:キャシー・ベイツ、エイドリアン・ブロディ

「ウディ・アレンの映画? ああ、あの金曜日の夜に観に行くようなやつね」と、かつて知人から言われ、ちょっとムッとした記憶があります。でも確かにこの『ミッド・ナイト・イン・パリ』は、まさに金曜日の夜にカップルで観るのが似合う映画。ただ、軽いタッチではあるけれど、実際に軽い訳ではなく、マイルドを装いつつなかなか深みもあり。

主人公は作家になることを夢見ながら、ハリウッドで二流作品の脚本を書いているそこそこ実力のある脚本家。婚約者とその家族と共にパリに来て、パリに住みながら小説を書けたらと願うようになります。実は以前も、パリに住みたいと思っていたのですが、しがらみを乗り越えられず実現できないままでした。

どう思いますか? こういう男性。女性の中には、「パリに住んで小説書くなんて、どんだけロマンティストなの? 冗談じゃない、ちゃんと稼いできてちょうだい!」と、主人公の婚約者と同様に思う方もいるだろうけれど、彼の夢が実現不可能とも言い切れません。そもそもこの主人公は、夢ばかり口にして、現実を見られないダメ男とは違います。生活を保つための仕事は最小限に抑えて、小説を書く時間を作ろうと計画しているだけ。できないことではないのでは? もちろん派手な生活は難しくなりますが。「小説書くぞ」と言うだけではなく、忙しい仕事の間を縫ってちゃんと作品仕上げているし。そのあたりの設定が細かい。少なくても一度小説家を目指したことのある人なら、おやおや、この人は口だけじゃなく、なかなか本気じゃないかと思うはずです。

でも彼の婚約者と共和党支持者でアメリカ万歳なその両親は、ハリウッドの脚本書きでそこそこ稼げるキャラクターとしてのみ、彼を見ています。彼の方も、1920年代(もう少し後?)のパリに行ってみたいと願うばかりの回顧主義者。どっちもどっちの両極端で、ふたりの溝は深まるばかり。

そんな夜、主人公は酔いを醒ますために歩いていたパリの路地裏で、ふいにタイムスリップして見知らぬ男たちの乗る車へ同乗させられます。連れて行かれた先は、当時の芸術家たちが集まる社交場。

その日から毎晩、この異空間にある芸術家街に、彼は出かけるようになりますが、フィッツジェラルドの妻・ゼルダに「小説書いている」と言っちゃうし、ヘミングウェイに「男らしくない、表に出ろ」って挑発されるし、そのヘミングウェイの紹介で著述家・美術収集家として著名なガートルード・スタインに小説みてもらうことになっちゃうし、彼女の家ではピカソが絵を描いているしと、まるで夢のような出来事ばかりが次々と…。

でもこれが、現代社会とアメリカに適応できず、パリや昔ばかりに憧れていた彼が、しっかり現実と向き合うためのきっかけになります。

やがて彼はふとしたきっかけで、時代をさらに遡ってベル・エポックの時代にまでタイムスリップするのですが、過去に行くにつれて迎えてくれる人々の心の開き方がどんどん広くなるようで、涙が出そうになりました。ただ、主人公じゃない人だけど、ルネサンス期まで行ってしまうのは、さすがに行き過ぎですよ。かわいそう。現代人じゃ、とても対応できやしない。

巨匠たちが、案外普通の人なのもいい。あのピカソやゴーギャンまでが、揃いも揃ってかなりの俗物です。さすがにサルバドール・ダリ、マン・レイ、ルイス・ブニュエルの一派は、「ちゃんと変人」でしたが。それにしてもこの3人、主人公がタイムスリップしてきたと言っても、誰ひとり驚きません。ううむ、さすがシュルレアリスト…(映画で観た時はそうだと思ったんですが、後で再度DVDで観たら、主人公が「修辞の問題じゃなくて」ってちゃんと突っ込んでますね。劇場版ではこの台詞がカットされていたのか、私がぼんやりしていて見落としたのか。2022年追記)。

こういうディテールの洒落っ気や映画としての骨格の確かさが、設定の滅茶苦茶さに美しい魔法をかけます。

毎日の生活の中で、人は自分に枷を設けて、すぐ動けなくなってしまう。そこから抜け出すには、きっと何か刺激が必要なのでしょう。なるほど、その起爆装置の舞台として、花の都パリは最適。私自身も、この映画自体が起爆剤になって、一歩前に踏み出せそうな気がしてきました。

若かりし頃の切れ味鋭いコメディも観たくなりますが、ウディの「ひねくれた人が心おきなく楽しめるおとぎ話」の世界は、まだまだ健在。観ている間中、そして観終わった後も、しばらく愉しい気持ちが続きました。ただそれと同時に、なぜかとてもせつなくなるのですけどね。

『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』

Pina /ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち

2011年ドイツ
監督/脚本:ヴィム・ベンダース
出演:ピナ・バウシュ、ヴッパタール舞踏団
東宝シネマズ新宿にて

昨晩、我慢できずに、ヴィム・ヴェンダース監督の3D映画『Pina』の最終回に飛び込んで鑑賞。

映画に詳しく、いつもなら鋭い批評をする論客たちが、揃いも揃って「素晴らしかった」のひと言しか残さない理由がよくわかりました。

かつて心の中に、絶望しか生まれなかった時期、埼玉までピナ・バウシュのダンスを観に行ったことを思い出します。そして本当にこの世に、誰かを助けてしまうダンスというものが、あるんだと知りました。

そのピナのダンスの映像化となれば、宝の箱を壊されてしまいそうでいやだ、と思うところですが、監督がヴェンダースだと聞いて不安は消失。

この人ならきっと、自分のためではなく、ピナのための映像を作ってくれる。映画の意匠ではなく、ダンスや音楽そのものに心を砕いてくれるに違いない。

その予感は、当っていました。むしろピナという対象への愛が深すぎて、映像からヴェンダース色が消えてしまったほど。でも音と選曲センスの方に、ヴェンダースらしさは残っていました。

東日本大震災のすぐ後、この映画を携えて、真っ先に被災地まで来たというヴェンダース。勤め先をやめてフリーになり、東京でひとりでがんばろうと決意しながら、不安定だった私の甘い心も、この映画は救ってくれました。だいぶ無理をしたけれど、観に来てよかった。

『本城直季 LIGHT HOUSE skåne』

“本城直季 LIGHT HOUSE skåne”

2011年9月24日(土)~11月5日(土)
nap galleryにて
NAOKI HONJO

時間ギリギリだったけれど、nap galleryの”LIGHT HOUSE”展を強行鑑賞。

題材は、空中から4×5判カメラで撮影されたミニチュアのような海辺のボートハウス。撮影場所は、スウェーデン南部のスコーネ地方というところらしい。

何もかもがはっきりしているのに、大小のバランスが崩れて見えることで、こちらの感覚もグラグラしてくる。うーむこれは、描写が困難……。

もうひとつの展示場でやっていたという路地裏シリーズも観たかったな。

『ブロンド少女は過激に美しく』

2009年 ポルトガル・フランス・スペイン合作
原題: Singularidades de Uma Rapariga Loura
監督・脚本:マノエル・デ・オリヴェイラ
原作:エッサ・デ・ケイロス「ある金髪女の奇行」
撮影:サビーヌ・フランス
出演:リカルド・テレバ、カタリナ・ヴァレンシュタイン 他
飯田橋ギンレイにて

長距離バスに乗った若い男は、隣合わせた見知らぬ女性に、自分の身に降りかかった体験を語り出す。「妻にも友にも言えないような話は、見知らぬ人に話すべし」そんな格言の言葉に従って。

江戸川乱歩の傑作短編『押絵と旅する男』の冒頭のような滑り出しでも、別に不思議なことが語られるわけではない。ただ、ときにリアリズムは、ファンタジー以上に奇妙な世界を見せる。

青年が語りはじめたのは、叔父の店の二階で経理の仕事をする自分と、その窓から見える向かい側の建物の二階に住む女性との運命の出会い。それは強い情熱に突き動かされる若き純愛の物語。しかし、どうも、なにかがおかしいぞ?

少女が窓際で仰ぐ扇のシノワズリーが、少女の美しさと神秘性を際立たせる。ただその扇が遠く離れた東洋のデザインであるように、少女の存在はミステリアスで訳がわからない。

この映像や音の質は、監督のオリジナリティなのか、それともポルトガルという土地が生み出す街の色気なのか、彼の地に行ったことのない私にはわからない。ただ、石畳の続く街並み、時を刻む時計台の鐘の音、そのどれもが、見事な映画のセンスを運んでくる。

このふたりの結婚を、かたくなに青年の叔父は認めないが、その理由はなんとなく私たちにもわかる。ふたりは美しい風貌以外は、何一つ接点がない。上流の出なのだろうが、今は金銭的にあまり恵まれていない女性やその母は、文学や芸術のサロンに出入りしている。でも、ここで求められる教養や会話のウィットを、青年は絶望的に持ち合わせていないのだし。

それでも、数々の障害に負けず、ふたりの恋は続く。何より、青年の女性への献身は本物だ。結婚を反対され、叔父に解雇されて失業しても、結婚をあきらめず、彼女と結婚するためなら、遠い土地でのつらい仕事を成し遂げてひと財産を作る。それを突然失ってもなお、再チャレンジを厭わない。叔父がその姿を見て、気持ちを変えるのも当然だ。

しかし長距離バスの中で、隣の女性に何度も青年が嘆いていたように、青年の回想は、やがてとんでもない結末で幕を下ろす。

監督であるオリヴェイラ監督は、この映画の撮影時に百歳を迎え、いまだ現役。なんでしょう、このセンス、抑えに抑えた官能。最後に観客を、感動から引きずり戻すサディストぶり。映画の才能や瑞々しさ、そして作品作りへの真摯さは、年齢とは何の関係もないとよくわかる。

リアリズムの手法で描きながら、カタリとそこからはずれたシーンがあり、そのためかえって痛みがヒリヒリと伝わってきた。

古めかしいフォルムを持ちながらも、その手法は過激なほど前衛的。観終わった後、この時代にこんな映画を、同時代の作品として観られることのうれしさに、思わずため息をついた。

『ウディ・アレンの夢と犯罪』

ウディ・アレンの夢と犯罪

原題 CASSANDRA’S DREAM
製作年/国 2007年/英
監督:ウディ・アレン
出演:ユアン・マクレガー、コリン・ファレル、トム・ウィルキンソン
恵比寿ガーデンシネマにて

ウディ・アレンのシリアス映画のひとつ。

若い兄弟には、風采のあがらない父と違い、世界をまたにかけて活躍する大金持ちの伯父がいる。その伯父に影響を受けたか、兄はあぶなっかしい投資話にうつつを抜かし、弟はギャンブルに狂う。ついに兄の方は、魅力的だけど多情な舞台女優をつなぎとめるために見栄を張り、父の会社の金に手をつける。弟の方も、大もうけしたポーカーにはまって、ついに払いきれないようなあぶない借金をしてしまう。

ふたりは、大金持ちの伯父に頼み、助けてもらうことになったのだが、伯父はそれと引き換えに、信じられないことを兄弟に頼んでくる。

こんな究極の選択ではないにしても、借金は人格を変える。目の前の返済をなんとかするためなら、普段のその人の性格では信じられないことまでしてしまう。私たちの身の回りにも、それはよくある話。

完全犯罪のはずが発覚するのは、神が罰を与えたのではなく、罪悪感や犯罪がばれる恐怖のため、犯罪者自身が余計なことをするからだとよく言われる。そう考えれば、この兄弟がこういう結末に見舞われるのは、彼らが人間的な感情を持っていたせい。

決して悪人ではない兄弟が、踏み込んではいけなかった一線。そこをこの映画は、まるで昔のハリウッド映画のように、丁寧に積み重ねて話を進めていくが、センス的に古くならないのはさすが。でも、ウディ・アレンのシリアス映画は、知識や教養がありすぎて、頑なで重苦しい。でもそこがまた、たまらなく魅力的。

この結末は、ひどい悲劇だけれども、ただ兄弟の愛の物語としてとらえれば、絆が保たれたという点で救われている。困ったことに私は、この結末にほっとしてしまった。

金や名誉に振りまわされる人々の弱い心と、繊細な登場人物の心のやりとりを描いた作品で、なんていうことはない、見せ方が違うだけで、人気のあるウディ・アレンのコメディタッチ映画と、描きたいことはまるで同じ。

ところで、恵比寿のガーデンシネマ自体の感想を書いてあるウェブサイトがあって、「古くてイヤ」「いまどき予約制じゃないなんて信じられない」「飲食禁止の映画館なんてあるの?」とあってなんだか笑ってしまった。シネマコンプレックスでしか映画を観ないタイプの人には、古かろうか新しかろうが、自分の感覚にあったものを頑固につらぬくこのウディ・アレンの映画が、あまり必要がないだろうことは確か。

『ウィリアム・ケントリッジ 歩きながら歴史を考える:そしてドローイングは動き始めた……』

ウィリアム・ケントリッジ 歩きながら歴史を考える:そしてドローイングは動き始めた……

国立近代美術館にて
会期:2009年9月4日(金)~10月18日(日)

この頃は、仕事でアニメ雑誌の編集部に出入りできるのですが、アニメ雑誌の誌面は、構成やデザイン、内容に冒険があってなかなか刺激的です。

編集者としてまだ未熟なせいで、就職してからは、休日もほぼ出勤状態(会社のせいではなく、自分のスケジューリングミスのためです…)。美術展にも映画にも行けず、意気消沈していたところ、アニメが取り持つ縁なのか、この「ウィリアム・ケントリッジ 歩きながら歴史を考える  そしてドローイングは動き始めた…展」にようやく足を運べました。

ウィリアム・ケントリッジは、南アフリカ・ヨハネスブルグ出身のアーティスト。一見したところラフだけど、よく見ると驚くほど見事な筆使いで描かれたドローイングのアニメーションは、シュールな話の展開で、あらゆるものを風刺します。

でもその風刺は、イデオロギーに囚われたものではなく、もっと複雑で自由なもの。これは想像にすぎませんが、複雑な歴史を持つ南アフリカでは、こういった風刺が、私たちが住む世界よりずっと身近なのでは?

古びた印象の単色手描きアニメーションは、ビジュアル的にそれだけでも美しい。でも、風刺的な内容と組み合わさることで、さらにそこに複雑な趣きが加わり、独特の時の流れで歯車がまわりはじめます。

時間を伴う動画系の作品ばかりだからこそ、もっともっと作品の前に、ゆっくり座る時間が欲しかった。これはリハビリ回なので、そのため息だけを残し、日記風に終わります。

めぐりめぐって辿りつくもの

かなりの年齢ながら、生まれてはじめて正社員となって3年。長年に渡る社会経験不足がたたり、ボロボロのヨレヨレですが、ようやく元の生活が取り戻せてきました。

元の生活というのは、仕事をして家に帰る以外に、本を読んだり映画を観たり、美術館に足を運ぶことができる生活のことで、たぶん私にとってそれは、気づかぬうちに「ずれて」しまう自分を、もうひとつの目で見つめ直す作業なのでしょう。

友人と川村記念美術館の『マーク・ロスコ 瞑想する絵画』展に行ったあたりから、心の重しが少し取れてほっとした気分に。しかし以前のように感想を書くとなると、これはなかなか難しい。あれは書き散らしていたようで、ある程度正確な情報を集めたり、メモをきちんととって行っていたんだなと今頃気づきました。

さて、現在の仕事はといえば、一度編集から離れることになって、出版社の方に戻りました。まだ、慣れない仕事に四苦八苦しています。

この仕事もなかなかおもしろいですよ。小さな出版社だからこそ、私のような下っ端でも出版部数や表紙の決定にも携われるわけで、印刷費の見積の読み方がわかったり、紙を選んだり。ほとんどはお金との戦いなんですけど、印刷所さんの方々と話をすることで、本を作るときの編集とはまた別の見方に触れることができて、なかなか新鮮です。

とはいえ、やっぱり編集が無性にやりたくなるときはあるし、取材のチャンスもなく会社にいると、どんどん自分が世間から取り残されてしまうような気分にもなるわけですが、こういう知識を身につけられるチャンスもそうはないので、今はこの仕事に全力投球したいと思います。

「ほぼ日」の『大人の小論文講座』で読んだ、この山田ズーニーさんのお話は、かなり心の支えになりました。Lesson194 メドレーを生きたがる精神

見積とにらめっこしていると、出版の厳しい現実もよくわかります。ほとんどがお金との戦い。どうしても編集現場には、節約を強いることになって、これがどうしても心苦しい。「金は天下のまわりもの」とも言うのですがね。