ふつうの連休

世の中は3連休。そういうものに無縁だった私も、今回は友達に誘われて横浜の中華街に。「福満園」というお店で辛いものばかりいただいて、とてもおいしかった。それに久しぶりにきちんと汗もかけた。汗があまり出なくなってしまったので、運動不足で代謝が落ちてることを実感。

他のお店でスイーツをいただいた後、港の見える公園や山下公園なども散策し、適度な散歩と観光気分を味わった。その後に立ち寄った港で、とても上手な大道芸&マジックに拍手をおくってから帰宅したのだけれど、十分に楽しんだはずが手放しで楽しみきれないのは、やはり基本的に観光が苦手だからかもしれない。一番うれしかったのが、途中に「いせ辰」を見つけて手ぬぐいをかったことだし。谷中が本店じゃんというツッコミが入りそう。

今の時期にせっかく横浜に行ったのなら、横浜トリエンナーレにでも行けば、少しは気持ちは満たされただろうに、なぜかそういう気分にならなかった。来週行けるかな? まあ行かなくても、3年後にまたあるんだし。…だめな私。

本も読まなければ文字も書かない。そんなフツーな休日を送りました。

早弁野郎

ときどきお弁当を持って行く私ですが、これがお昼に食べられないんで困っています。

要するに私、食べ物があると、すぐ食べちゃうんですね。「早弁」しちゃう。

今もお昼から撮影に出なくてはならないから、パンを買ってきて机に置いたのですが、うっかり食べそうになって驚きました。

まだ9時53分。始業前なのにさ。

それだけ。

毎日のカレー

日曜日は、友人と叔母と一緒に、晴海トリトンまでインド料理作りを体験しに行った。

教えていただいたのは、特別な日に食べるカレーじゃなく、30分くらいで作れるインドの家庭のカレー。欧風カレーのように小麦粉を使っていないせいか、サラサラで野菜たっぷり。ヘルシーだから、毎日だって食べられる。要するに、日本におけるお味噌汁みたいなもの。

簡単だけど、スパイスの使い方など、その文化でないとなかなか生み出せない。そこもお味噌汁との共通点かも。

食べるだけで、それまで遠く感じていた国が、たちまち近い存在になる不思議。食べ物って本当に偉大。

このくらいの短さなら続くかな? 一切掘り下げないことにしよう…。

教えて下さったのは、この本の著者であるミラ・メータ先生。説明がとにかくわかりやすく、当日の私のボーっとした頭にも、スラスラと内容が入ってきました。気品のあるとても素敵な方です。

文化出版局の本は、どうしていつもこんなにきれいなんだろう?

はじめてのインド料理
ミラ・メータ (著), Mira Mehta (原名)
出版社 ‏:文化出版局

はじめてのひとり暮らし

引越しをしました。なんとはじめてのひとり暮らし。
その感想はと問われても、何も語りようがありません。というのも、ここ1カ月、仕事がとんでもないことになってしまい、部屋は深夜に寝に帰るだけという惨状だから。スケジューリングミスがきっかけで、全てのバランスが狂ってしまってこんな有様…。
今度の土日は休めそうなので、いやなにがなんでも休むので、遅ればせながら部屋を自分が気持ちがよいように変えようと、計画を立ててはいます。
電気代とガス代は自動引き落としにしよう。絶対に忘れそうだ。自炊道具はまだひとつも揃わず、お風呂と洗濯機だけがフルに稼働。
そして、たてつづけに2冊の校了でボロボロの体ながら、今度こそスケジューリングを完璧にして、健康で人間らしい生活を、ここを拠点に行うぞぅと誓う私です。
数日前、テレビの端子をつなぐラインを買ってきて、ようやくテレビが見られるように。うっかりするとつい「ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ」なぞを観てしまい、睡眠時間3時間になるので自重。そう言えば、ここのところ、深夜番組しか観ていない…。でも、深夜番組の方が、ゴールデンタイムの番組より、おもしろいということを知りました。
そんな状況ですが、とりあえず、ここからまたひとつずつはじめていきます。

子供はよろこんだ顔が一番かわいい

新しい季刊誌の編集で、企画が通って絵本の取材をさせていただきました。なつかしい絵本やあたらしい絵本、どれもこれもがアイディアと魅力にあふれていて、たのしい取材となりました。

その中で、インタビューさせていただいたのが、『ぐりとぐら』の中川李枝子さん。もともと保母をしていらして、子どもを喜ばせるために絵本の朗読をはじめたという中川さんは、子どもの喜ぶ顔見たさに、楽しい絵本を作っていらっしゃるのだそうです。

保育の基本は、「子どもをよい方向に伸ばすために、どんな遊び方をしたらいいか考えること」という中川さんの考えに深く納得。はじまりはいつも、そんな基本的なことのはずなのです。それがどこをどうまちがって、おかしくなってしまうのか。

中川さんの絵本は、もちろん「ぐりとぐら」シリーズも大好きですが、小学生の頃、写生大会で馬をピンク色に塗って学校から注意を受けた問題児のひとりとして、読んで救われた気持ちになった「ももいろのきりん」が特に印象に残っています。

中川さんが目指しておられるように、ストーリーの凝った作品よりも、発想の自由さを楽しめる絵本が、私も子供の頃好きでした。そして今でも好きです。そんな自由な絵本を開くと、緊張でかたくなってしまった頭や心が、解きほぐされていくようで。

遊びの達人である子どもたちが、おもしろがるようなものは、きっと大人が見たっておもしろいにちがいないのですから。

『星の王子さま』

星の王子さま

作者: アントワーヌ・ドサン=テグジュペリ
訳:池澤夏樹
出版社:集英社

少し前になりますが、表参道のスパイラルで「池澤夏樹講演会」を聞いてきました。

今回の講演会のテーマは、池澤夏樹氏が新しく訳した『星の王子様』と最新刊『異国の客』について。

長いあいだ多くの人たちに読み継がれている『星の王子様』についての話はもちろん、農業に適した恵まれすぎた土地だから神様はフランス人をあんな性格(?)にしてしまったというジョークや、テオ・アンゲロプス作品の字幕翻訳の難しさなどについても聞けて、楽しい時を過ごせました。

手をかけて飼いならしてやらなければ、自然はワイルドになって人間と手を切ってしまうというのがフランス人をはじめとする欧米人の「自然観」。その自然観が、『星の王子様』にも色濃く反映されているのだとか。そこから欧米と日本との自然観の違いへと話は進みました。

また当時、「飛行機に乗る」ということは、まだ命がけの「開拓」でした。そのせいかサンテックス(サンテクジュペリのことを、親愛の気持ちをこめてこう呼ぶらしい)は、飛行機に乗ることと農業に共通点を感じ、人間にとって農業は一番大切なものだと感じていたそうです。

そうやって、池澤氏の穏やかな語り口で語られる『星の王子様』についてのエピソードは、どれもこれもが魅力的で、読んだことのない人は、きっと『星の王子様』を読まずにいられなくなったはず。私もそのひとりです。

買った本を、近くの喫茶店で一気に読み終えて、思わずため息をつきました。この本には、こんなに大切なことがつまっていたんですね。

池澤氏曰く、「何度も読んで、自分なりの解釈をしていくのだけれども、それでもまだ読み切れていない気がする。だから何度でも読みたくなる本なのだと思う」。

子供向けに書かれていながら、子供にはきっと読みこなせない。やさしくスラリと読めるけれども、実は書いていない部分にこそ、この本の言いたいことがある。確かにとても難しい本です。ただわからないところはそのままで、わかるところだけ読んでも、大切なものは残される。

特別なことをしたわけではなくても、普通に生きて自然に経験を積んでいけば、「大切なものは目に見えない」という有名な言葉が、この本を通してよく理解できるようになるはずだと思うのです。だから子供の頃にこの本を読んだという人にこそ、もう一度読み返して欲しい。なぜかそんなことを、お節介にも願ってしまいました。

『革命前夜』

革命前夜

原題:Prima Della Rivoluzione
1964年/イタリア
監督:ルナルド・ベルトルッチ
脚本:ルナルド・ベルトルッチ
撮影:ルド・スカバルダ
音楽:エンニオ・モリコーネ / ジーノ・パオリ
出演 :ドリアーナ・アスティ / フランチェスコ・バリッリ / アレン・ミジェット

今の日本では、ほとんどの人が衣食住を手に入れることができ、時には趣味さえ楽しむことができる。だからあくせく働かなくてはならないという点を除けば、この映画を少しはわかるのではないだろうか。しかし本物のブルジョワジーからはほど遠いので、滅びゆくとき特有の皮肉なこの美しさを、放つことはできないだろうけれども。

ブルジョワジー階級ながらも、若者らしく不平等な世の中に反発を覚え、共産主義に傾倒する青年が主人公。

そのまわりにいるのは、たまの家出や酒を飲むことでしか、周囲へ反発できない友人。彼の弱々しさは儚げで美しく、しかしついには自己嫌悪から自滅してゆく。

共産党や労働組合が、結局は単にブルジョワジーの真似をしたいだけだと気づいても、子供たちの教育へ信念をかける博学な教師。

甥である主人公の青年と束の間の愛情を交わしながら、つねに精神不安定で、自信のなさが逆に自信ともなっている美しい叔母。

その叔母の友人で、父親の死によって、もうすぐ土地や屋敷を、他人の手へ渡さなければならないブルジョワの没落そのもののような初老の男性。働くという概念さえ持たず、その年齢になってしまった男性のこの後には、死しか想像できない。

しかしその男性に主人公は反発しながらも、男性がむかってくる船へ叫んだ詩が、自分の将来をも暗示していることに気づいてしまう。

「自分は革命前夜にしか生きられない」

そう悟ると、主人公の青年は、滅びゆくブルジョワジーへ自ら帰ってゆくのだが、その言葉をかみしめるたび、ブルジョワジーではない自分にも、不思議とその言葉がはね返ってくる。変革を望んでも、しょせん生き馬の目を抜くような状況には、対応できないとわかっている自分。もしくは、そう思いこんでしまっている自分。

そのなかで実際に過ごす人たちは、どんなに大変かということがわかってはいても、やはり革命前夜は圧倒的に美しい。滅びるとわかっているのに、それだからこそ美しく輝く。絶望の先にも、奇妙なあきらめがあり、そこから病的な光が放たれる。

そんな滅びの美しさを、モノクロ―ムの映像へ漂わすことができるのは、やはりベルトリッチならでは。心へすっと忍びこむ感傷的な、それでいて的確なセリフ。それらが語られるとき、最新の注意を払って補われる音楽。時には沈黙さえ、見事な音楽となっている。

静かでシンプルなのに、怖いほどに非凡。映画という媒体の底知れぬ魅力を、あらためて思い知らされた作品だった。

『グロリア』

グロリア

1980年 アメリカ
監督・脚本:ジョン・カサヴェティス
撮影監督:フレッド・シュラー
音楽:ビル・コンティ
出演: ジーナ・ローランズ, バック・ヘンリー

サヴァイバルにまるで適さない私なのに、画面のなかのタフな女性に憧れてしまった。

名前はグロリア。クールで嘘がなく、曲がったことは許さない。男たちの弱者切り捨ての論理とは、また少し違ったレヴェルで筋を通す女。子供は大嫌いだけど、子供を一人前の人間として扱うまっとうさ。いざというときの、すごい決断力。いろいろあっただろう人生を、悔やんだり隠したりしない潔さ。

なんて格好いいんだろう。この映画を観ると、オバサンになることが、不思議に怖くなくなる。でも彼女のようになることは、多分絶対にできない。今の彼女の見事なスタイルの影には、いくつも積み重ねてきた悲しみや試練があるだろうから。

ウンガロの激しい色彩の絵画から、唐突に映画ははじまる。甘さのない緊張感に満ちた画面に、グロリアも唐突に現れる。

そこは、いまやマフィアに襲われようという会計士の部屋。危機を察した両親が、たまたま訪ねてきた友人女性・グロリアに預けた少年以外の家族全員は、あっという間に惨殺されてしまう。苦手な子供をあずけられ、あげくの果てに誘拐犯とまちがわれながら、グロリアと少年は、不仲のまま逃避行をはじめる。殺される確率の方がはるかに高い、八方塞がりの逃避行を。

あっという間に天涯孤独になってしまった少年の心を、自分が絶望から救っていることに、グロリア本人も気づいていないだろう。 ニューヨークのブロンクスからハーレム、アッパー・イーストサイドへ。特に地下鉄でグロリアと少年が捕まりそうになったとき、女性と子供に大勢でなにしやがるんだとばかりに、まわりの乗客がマフィアの手下たちを、協力して羽交い締めにするシーンが印象的だった。下町気質は、世界のどこでも変わらない。アメリカでも日本でも、今は失われているのかもしれないが。

マフィアのボスたちも認める「いい女」であるグロリアは、この作品を下敷きにして作られた『レオン』の主人公とは違って、驚くほどの強運の持ち主でもある。こんなに気持ち良く感激できることは、なかなかない。

『孤独な場所で』

孤独な場所で

原題:In a Lonely Place
1950年 アメリカ
93分
監督: ニコラス・レイ
製作: ロバート・ロード
脚本: アンドリュー・ソルト
主演: ハンフリー・ボガート、グロリア・グレアム
※1993年にいまはもうないミニシアターのシネ・ヴィヴァン・六本木で、この映画を観た際の記録です。

映画が上演し終わり、シネ・ヴィヴァン・六本木の外に出たところで、男の子ふたりがいま観た映画について、感想を言いあっているのが耳に入った。

「なんかさ、映画の高揚感がないよね」

その言葉が印象に残ったのは、そのうちのひとりが、そう言ったからかもしれない。確かにそうかもしれないが、そのことは、この映画の欠点には決してなっていない。

映画のストーリーを、簡単に説明すれば次のようになる。

ひとりの脚本家に、殺人の疑いがかかる。しかしある女性が彼のアリバイを証言したために、その疑いは晴らすことができた。さらにそのことがきっかけで、女性と若くて才能があるその脚本家とは、つきあうことになる。

ところが次第にこの脚本家が、突発的で暴力的な衝動を持っていることがわかりはじめ、愛していたはずの彼を、女性は次第に信じられなくなってゆく。

スクリーンの前に座る観客を、ハラハラさせるには申し分のない設定のはず。それなのにこの映画は、その手の興奮をまるで味あわせてくれない。それはおそらく、実質的な主人公が、女性の方ではなく、実は殺人犯かもしれない脚本家の方だから。

自分の挫折を認めることができず、常にどこか張りつめていて感情を表にあらわさない脚本家は、強いストレスがかかると、相手を殺しかねないほどの暴力を、突発的にふるってしまう。いま風に言えば、すごい勢いで「キレル」。

女性はそんな脚本家の弱さも、丸ごと認めようと努力するのに、自分も殺されかねないような状況に一度陥ったとき、さすがに我慢の限度を超えてしまう。

社会では天才であるかのように扱われる脚本家のさみしさ、そして自分の行動への計り知れない嫌悪感は、ラストシーンの後ろ姿に漂う悲しみにすべてこめられている。

たとえ自分の理想とさえ思える女性から、いくら愛情を受けることができたとしても、脚本家を取り巻くユニークで魅力的な人々が、彼のことを本当に心配していろいろと心を砕いてくれても、その孤独はどうしても埋められないのかもしれない。

一見サスペンスのような設定でありながら、愛情を与えよう、受け入れようと、努力をしつづけても、どうしてもそれをできないひとりの人間を描くこの作品は、期待された興奮を受け取れなかったことで、多くを観客を失望させ、それと同時に予想外の感動を与える。

こんなに魅力的な友人が、まわりから手を差し伸べてくれているというのに、それにこたえられないことは、本当につらいだろうと思う。心に潜む狂気は、それでも顔を出してしまう。

『ゴースト・ドック』

ゴースト・ドック

原題:THE WAY OF SAMURAI
1999年
米・仏・独合作アメリカ映画
監督/脚本:ジム・ジャームッシュ
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:RZA

いまや滅びた旅行鳩の視点からはじまった映画は、主人公の殺し屋「ゴースト・ドック」が、盗んだ高級車を発車させた後、カーオーディオから流れ出した音楽とともに、不思議な安定感を保ちつつエレガントにすべり出す。

それはもう止まらない、「ギャング」と「武士道」と「読書」についての大切な映画。また、「葉隠」と「藪の中」と「ヒップホップ」と「旅行鳩」の映画でもあり。

ここで用いられる「葉隠」は、三島由紀夫の「葉隠入門」でも知られている武士道についての本。ただ、現代の日本人が、どれくらいこれを読んでいるのか。大体、ジャームッシュ自体、本気で使っているのか、冗談なのか。

確かなのは、そこに引用された「葉隠」のセンテンスを、一応日本に生まれ育った私と、現代のアメリカ・ストリートに生きる殺し屋が、同じように解釈したこと。

用いる武器が、刀ではなく拳銃だったり、生きているステージの違いはあっても、ゴースト・ドックは「葉隠」に書かれたことを深く理解し、筋の通った生き方をする。それは、形だけの日本かぶれではなく、内面に深く根を下ろしている。

日本では、戦時中に、この「葉隠」の冒頭『武士道とは死ぬことと見つけたり』を、軍事教育に用いられた過程などもあるので、かえって異国での方が、本来の意図を、汲みとることができた…ということもあるのかもしれない。

ギャングとか武士道とか、ちょっとまちがえば、絵空事になってしまう題材を用いながら、浮ついた雰囲気がない。十分ふざけてはいるのだけれど、足元はしっかりしている。 ときどき、日本の武士映画に見られる、自己陶酔も、まるでない。

ひとつひとつ丁寧な、登場人物の描写。思わず笑っちゃう癖やディテールは、もうお見事。

言葉も解せずに、固い友情で結ばれているゴースト・ドックとアイスクリーム屋。どんな深刻なシーンでも、それを包んでしまうユーモア。いまや時代遅れとなった古いギャングのしきたりや、武士道の忠誠心へのさりげない愛情。

そして大切なことが、本を用いて、次の世代へと手渡される最後のシーン。 その全部が、うまく噛みあって、繊細な映像をつくりあげている。

観客それぞれが、そこになにかを補うことで、複雑な魅力を放つ映画。

語りたくないといったわりに、語ってしまった…。ぜひ、観て下さい。