『さよなら、さよならハリウッド』

さよなら、さよならハリウッド

原題:Hollywood Ending
2002年アメリカ
監督/脚本:ウディ・アレン
出演:ウディ・アレン、ティア・レオーニ、ジョージ・ハミルトン、トリート・ウィリアムズ

この映画で描かれたニューヨークは、それまでになくカラフルで、光輝いている。実はこれ、「9.11」以前の作品なんだとか。確かにあのテロの後では、もう難しいかもしれない。

主人公は今ではおちぶれてしまった映画監督。不遇な生活の末に、ようやく大きなチャンスがまわってきた。彼を推薦してくれたのは元妻。その元妻に助けられながら、なんとかクランクインにまでこぎつけたのに、その前日にストレス性の失明状態となってしまったからさあ大変。

ウディ・アレン演じる映画監督は、相変わらずかなりの神経症気質で、元妻と仕事の話をしていても、途中でつい自分を捨てた(?)妻への繰言へと変ってしまう。そして妻に、「あなたは自分のことばっかり」と言われる。…妙な親近感。

大げさではあるのだけれども、世界が「現実のことから心の内面に巣食う妙なこだわりへ」と、ついついすべり落ちてしまう瞬間を、笑わせるきっかけとして描けるのはさすが。

しかしずっと精神分析を受けながら、まったく症状が改善されない人ばかり。それが、ニューヨークから外に出たくないという意思表示でもあるんだろうか。

『スコルピオンの恋まじない』の催眠術にかかるシーンに引きつづき、ウディ・アレンの「目が見えない演技」には一見の価値あり。

そして、あまりにも都合の良いハッピーエンドに、呆れつつも大笑い。

映画館にて、この映画を観ているビジネスマン風の男性たちが、大声で笑っていたのが印象的だった。

持っているテーマに比べると、あまりにもタッチが軽くて、「もうちょっとねばって欲しい」とも思うけれども、この軽みこそ、ウディ・アレンなのだろう。

よく観れば観ただけの味は出る作品。ええと、素直に言っちゃえば大好きです。

ウディは、相当にひねくれた人種が、安心して感動できるおとぎ話の名手。

『ソウル・オブ・マン』

ソウル・オブ・マン

2003年 アメリカ
原題:THE SOUL OF MAN
監督/脚本:ヴィム・ヴェンダース
製作総指揮:マーティン・スコセッシ
出演者:スキップ・ジェイムスJ.B.ルノアー

今回観た『ソウル・オブ・マン』は、アメリカでの“ブルース生誕100年”記念事業の一貫で「THE BLUES Movie Project」の第1弾。ブラインド・ウィリー・ジョンソン、スキップ・ジェイムス、J.B.ルノアーなど、まるで神のようなブルースを歌いながら、幸せとは決して言えない人生を送ったブルースメンの姿が、「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」の時と同じように「記録」されている。

ヴェンダースの自由さは、このドキュメンタリーを、20世紀音楽を代表して宇宙船にもその音源が積みこまれたブラインド・ウィリー・ジョンソンが、宇宙から語りかける形で始めさせるところ。

ドキュメンタリーといっても、とりあげられた3人のブルースメンの記録は、ほとんど現存していない。だから半分以上は、再現ドラマと言っても良いのだけれども、1920年代の手回しカメラで撮影した成果なのか、まるで本当のドキュメントのように思える。

個人的には音楽を扱った映画の場合、映像や演出は、音楽の質に負けないレベルを保ちつつ、少し後ろにひいていて欲しい。そういう意味でもこの作品は、純粋に私の好みだった。

ともかく今回の主役はブルース。実を言えばブルースには、少し引け目を感じていた。今まで生きてきて、全く苦労がなかったとは言えないけれど、初期のブルースが産み出された土壌と、そこで繰りひろげられた苦難と貧困と差別の歴史を、私が完全に理解することは不可能だと思っていたから。

それでもこの映画を観たとき、たぶん思春期に次いで二度目の大混乱の中にいた私は、六本木のヴァージンシネマで、立派過ぎる椅子に妙な居心地の悪さを感じながら、少し小さくなって腰を下ろしていた。それなのに映画が幕をあけたとたん、三人のブルースメンの歌は、ヴェンダースの映像技術の力も借り、私をあっけなく「ひきずりあげて」しまった。

ブルースには、そういう力があるのだと思う。たとえ聴いている人々よりも、歌っているブルースメンたちの人生の方が、はるかにやりきれないものだったとしても。つらさをユーモアで包みこむ声と音楽、言葉の力が、強く心に響いた。

『江戸の占い』

江戸の占い

大野 出 著
河出書房新社

落語を聞いていると、話の脇役として、たまに「辻占い」が出てくる。現代と同じように江戸時代でも、占いは庶民から武家まで広く楽しまれた娯楽のひとつだったそうだ。いや、それどころか、江戸時代の方が最盛期?

それにもかかわらず、今も昔もこの分野が、学問でまじめにとりあげられることはあまりない。『江戸の占い』は、その分野にきちんとスポットを当てることで、今までとは少し違った角度から、時代の雰囲気や風俗を浮かび上がらせようとした本。

当時のおみくじの絵柄や文面、今なら差別問題になりかねない(?)人相占いなど、たくさんの図版が用いられていて、それを眺めていると、確かに著者が望んだように、江戸のひとつの側面を体験できる。今と同じでかなり流行ったらしい安部清明占いの項目では、当時と同じ占いが実際にできたりもする。

それにしても、江戸時代に流行した占い(夢占い・顔相占い・おみくじ…などなど)で用いられた「テクニック」は、驚くほど今の占いに引き継がれている。占術という人智の及ばない特殊技能を前面に押し出しながら、土着的でごもっともな倫理的処世感を庶民に植えつけるため、運・不運を用いてちょっと脅かしてみる。運勢が悪い場合は、災難を避けるために、より良く生きましょうと「運勢転換の思想」を説く。

うーん、現在大人気の某女性占い師なんて、この方法をそのまま使っているような……。

それを知ってもなお、人々は承知で騙されつづける。自分で何かを選ぶことに疲れて、あえて古い価値観で縛ってもらいたい?

騙されることもひとつの娯楽なのかもしれない。それが盛んだった江戸という時代の豊かな側面を、少しだけ垣間見ることができた気分になる。

『私小説―from left to right』

私小説―from left to right 

水村美苗 著
ちくま文庫

タイトルが挑戦的。「私小説」とわざわざ、現代作家が銘打ったら、そこにはなにかがある。

12歳から20年間をアメリカで育ちながら、日本文学を読みふけり、実際の自分とは、違う自分がいるように感じていたこの作者は、横書きで英語交じりの日本語小説を書く。それが彼女の私小説。

これだけの長文を横書きだと、習慣的に少し読みにくくはあるけれども、そのため、現実がシビアにそしてリアルに、読み手まで伝わってくる。

この小説のネックとなるのは、主人公と姉が、広いアメリカで唯一つながれる電話。その電話線のみを通して、姉妹のとめどないお喋りが、彼女たちの過去から現在、さらにぼんやりと見える未来までを行ったり来たりする。

海外(特にここでは欧米)に住む孤独は、繰り返し文学作品で扱われてきた。そしてそれのどれを読んでも、圧倒的な孤独と足もとの不安定さに打ちのめされる。望んで海外に行った人でさえ、晩年になると日本へ帰ってきたがるのを見ると、やはりそういう孤独や不安は、私が想像できないほど切迫したものなんだろうかと考えてしまう。

海外で暮らしたことのない私には、それらを本当に理解することなどできないのかもしれない。ただ、主人公の年齢設定が自分と同じだったこともあって、この小説に書かれたことのひとつひとつが、ヒリヒリと自分の身へ迫ってきた。

海外に住む日本人というのは、もしかして日本に住む日本人が漠然と感じるだけですんでしまうことを、もっとはっきりと受け止めなくてはならない存在なのかもしれない。

横書きでバイリンガルという以外には、現代日本語の感覚から言えば、むしろ不必要に古めかしく感じる。それは作者が日本語を、文学作品から得るしかなかったせいか。

しかしこの作品は、日本という土地にどっぷり浸かっている私たちの現代的な苦しみと不安に、しっかりとつながっている。

『エレファント』

エレファント

2003年 アメリカ
原題:Elephant
監督/脚本:ガス・ヴァン・サント
製作総指揮:ダイアン・キートン、ビル・ロビンソン
出演者:ション・ロビンソン
シネセゾン渋谷にて

この映画は、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー『ボウリング・フォー・コロンバイン』と同じコロラド州コロンバイン高校での銃乱射事件を扱っている。

『ボウリング・フォー・コロンバイン』が、ドキュメンタリー形式だったのに対して、こちらは完全なフィクションで、フィクションでしか描けない真実を、探ろうとしているように感じた。

私はアメリカのハイスクールに、一度も足を踏み入れたことがない。それなのにこの映画の教室の光景は、まるでデジャブのようにリアル。比較的恵まれた先進国の中高生時代は、洋の東西を問わず、世代もすべて超えて、あやういものを抱えているのかもしれない。

この時期は、まだ自分の意志で、社会に踏み出す前の段階。ちゃんと扶養されているし、勉強する機会も与えてもらっている。それなのに学校のなかには、訳のわからない鬱屈が積み重なる。もうすぐ爆発しそうな「前触れ」が、そこかしこに漂う。

友だち同士ではしゃぐときの刹那的な楽しさ、どうしてそれほど残酷になれるのかと思えるような悪意、ふくらむ希望や絶え間ない不安……。

ただ、世界中のたくさんの教室では、こういう「前触れ」を抱えながらも、それほど大きな事件は起らない。しかしこの日のコロンバイン高校では、不運にも銃乱射事件が起こってしまった。

事件が起こるまでのハイスクールの1日が、何人かの生徒の視線から、ときには時間軸さえラフに移動させて描かれる。だから同じ場面を、違う角度から、何度も繰り返して見ることになる。これは映画だとわかっていても、同じ場面がそれぞれの生徒にとって、まるで違う重さを持つことに、思わずため息をつくしかない。

ハイスクールのなんと言うことのない気だるさが、日常にありがちなデティールを丁寧に描くことで、どんどんリアルに浮かびあがってきて怖くなった。まるで自分が、その時代に一気にひきずり戻され、本当は不安に押しつぶされそうなのに、強がってみせている気分にさえなる。

さまざまな意匠を凝らした映像と、ベートーベンの『ピアノソナタ第14番』や『エリーゼのために』など効果的な音声のせいか、ありがちな情景を描いても、この映画はまったく凡庸ではない。それどころか、一瞬たりとも目が離せない。

手の混んだいじめや、速やかに銃が手に入る現実、少年少女たちが抱く自分たちの気持ちを読めない教師へのいらだちは、確かに描かれてはいるのだけれども、映画のなかの銃乱射事件にとって、それは要素のひとつに過ぎない。

あの空気、あの鬱屈…。確かにここからは、銃ですべてを撃ってしまいたいという衝動が、生まれるかもしれない。想像するくらいなら、たぶん自分だってやっている。

しかしただ考えるだけではなく、本当にこれを実行してしまった犯人たちには、まるでついていけなくなった。殺したいと考えることと、実際に殺してしまうことの間には、決定的な違いがある。専門家によると、自分が人を殺してしまうのではと不安になるようなタイプと、実際に殺してしまうタイプとは、思考回路がまるで違うのだそうだ。

最後の銃乱射事件は、単なる衝動ではなく、冷静にそして残酷に行われる。実を言えば、あまり観たくないシーン。それなのに、ひとつひとつの場面や音声は、ずっと覚えておきたいと思うほど不安定な魅力に満ちていた。

『ユリイカ(EUREKA)』

ユリイカ(EUREKA)

2001年 日本
監督・脚本・編集・音楽: 青山真治
プロデューサー: 仙頭武則
撮影: 田村正毅
出演: 役所広司/宮崎あおい/宮崎将

たまに眠ってしまう映画がある。とはいえそれは、私にとって誉め言葉で、眠ってしまうほど、心地よい体験だったということ。

この映画がはじまったとき、これは眠れるかもという予感があった。しかし実際は、眠れそうなのに決して眠れないという、不思議な体験をさせられることに。綱渡りのような緊張感が、最後まではりつめていた。

モノクロ撮影したネガを、カラーフィルムにプリントする「クロマティックB&W」という手法で創られた映像は、白黒ほど厳密ではなく、あちらの世界とこちらの世界の境目のように曖昧な色彩。

その静かな色彩の下で、映画自体はざわざわと、風のやまない森のように、つねにかすかに騒がしい。バスジャック事件、連続殺人事件、ひきこもり……。今風のキーワードが、次々と出てはくるが、それらとしっかり向きあって、登場人物たちを無責任に放り投げたりはしない。

少女が声を取り戻すことは、新しいはじまりを予感させる。しかし少なくても、主人公である元バス運転手・沢井が、「社会復帰する」ということには、決してつながらない。

主人公たちは、社会の内側に置かれてはいても、冒頭のバスジャック事件以来、どこかで社会の外へ出てしまっている。もしくは社会と呼ばれる場の周縁を、グルグルまわっている。

これからも、彼らの状況はきっと変わらないのではないか。むしろ悪化するかもしれない。そう確かに、「社会的に」は。

それなのに、抱いてしまうこの希望は、いったい何なのだろう。

この映画が最後に見せる「希望」は、私たちが営む社会よりも、おそらくもっと高いところにある。社会の内側にいながらにして、外側からそれを眺め、本当のことをすくいあげた映画にも思えた。

現代日本映画の流れにおいても、エポックメーキングとなる作品ではないだろうか。それなのに、上演時間の長さのためか、あまり観てもらえていない様子。なんだか悲しい…。

タイトルである「ユリイカ」が、ジム・オルークの同名曲に由来することもあり、咳の音さえも(!)、まるで音楽のように感じられる映画でもあった。

『-強制再起動-』 

-強制再起動-

於)レントゲンヴェルケ
アート・コンプレックス北館3F
展示アーティスト:フロリアン・クラール、長谷川ちか子、桑島秀樹、長塚秀人、小川信治、サイモン・パタソン、笹口数、田中偉一郎、渡辺英弘

四月の末、六本木ヒルズができたことで、だいぶ印象の変わってしまった六本木の芋洗い坂にできたのが、アート・コンプレックス『complex』。

昨年末にクローズされた佐賀町食糧ビルの想いを継ぎ、ひとつのビルごとアート発信地にしようという試みで、建物内には、アートギャラリーだけではなく、カフェバーや建築・アートスタジオもある。中央にあるふたつの階段を境に、右と左にスペースが分かれるちょっとおもしろい空間。

右の階段を選んで、通称北ウィング3Fまで階段をのぼると、そこにあるのがギャラリー「レントゲンヴェルケ」。扉にはプルトニウムのマーク。危険、危険?

しかも展覧会のタイトルは『ー強制再起動ー』。

ガラスに文字を小さく刻印した作品からはじまって、実際にある風景なのに不思議な印象が漂う写真、毒虫特有の美しくカラフルな柄を横に長い宝石箱のようなものにコレクションした作品等、強い個性を持つバリエーション豊かな作品群に触れ、タイトルに負けないインパクトを受けたところで、最後の作品が待っていた。

床に直置きされたホームビデオの小さな画面を、屈み込んで覗くと、窮屈さと引き換えに「鳩の視点」を手にすることができるという作品。

タイトルもズバリ「鳩命名」(だったと思う…)。鳩の視点まで下りたカメラが、どれも同じに見える鳩の一群から、一羽を選んでクローズアップする。するとそこに、作者が勝手につけた名前のキャプションがあらわれる。

その名前というのが、一羽ずつ特徴を見事に捉えているからおかしい。なるほどこの子は若いお嬢さん、こっちはおばあさんかな、うーんこれは確かに男性だ。どれもいかにもありそうな名だけど、平凡すぎることもなく…。

するとそこに一羽のカラスが! つけられた名は、カール・シュミットとかなんとか。とにかく西洋人の名前。確かにカラスのシャープさは、頭のなかで自動的に西洋人の像を描く。そんな風に感じるのは、鳩の細かな特徴を、じっと観察しつづけていたから?

抗いがたい命名の誘惑。そんなアホなと頭を振っても、もはや切り離せなくなっている固定イメージの数々。圧倒的なナンセンスさで、思い出すとついいまも笑ってしまう。

『ジャズの本』

ジャズの本

ラングストン・ヒューズ
木島 始 訳
晶文社クラシックス

ジャズを好きと言うと、「おしゃれなのが好きなんだね」と返され、絶句したことがある。そしてとても悲しくなった。

ジャズが好きと言っても、他のジャンルの音楽も同じくらい聴くし、詳しい知識なんてまるでない。ただ心の中にあったリズムと、驚くほど波長の合う音楽は、調べてみるとなぜかジャズに関係していた。そういう音楽を聴けば、ただ理屈なしに共感してしまう。ただそれだけのこと。

もしかして私の好きなジャズとは、現在の洗練されたジャンルとしてのジャズと、少し違っているのかもしれない。そう思ったことがあるせいか、この『ジャズの本』を手にして、はじめのページをひらいたとき、私が漠然と描いていたジャズにイメージがぴたりと一致したので、うれしくて小躍りしたくなった。

著者のラングストン・ヒューズは、ジャズやブルースのリズムの影響色濃い詩で知られ、アフリカ系アメリカ人による様々なアートや音楽、文学の全盛期である「ハーレム・ルネッサンス」の重要な担い手である詩人・作家・ジャーナリスト(ちょっとまとめるのが難しい…)。そのヒューズの平明な語り口、 そして丁寧な翻訳のためか、内容が心にストンと落ちてくる。ざらりとした質感の装丁も、切り絵のような挿し絵も、本を読むよろこびを感じさせてくれる。

『いまお話したようなのが、 ジャズという音楽の発生なので、--みんなが楽しむために演奏をしたことからはじまっています』
『他の国々の音楽とアメリカのジャズを区別する主なことのひとつは、ジャズにじつにリズムの種類がたくさんあることです。ある点では、ジャズはアフリカの太鼓を打つことから成長したといえます。太鼓は人間の基本的なリズム楽器です』

これらはみんな、短くわけられた章を、まとめて「しめる」言葉。それらを一列に並べるだけで、ジャズの精神の基本が透けて見えてくる。

『つまりジャズはいつも人々を「動き」たくさせるのです。 ジャズ音楽は、あわせて動き、あわせて踊る音楽です。--ただ耳を傾ける音楽ではありません』

ジャズと霊歌(スピリチュアリズム)との、切っても切れぬ深いかかわり。ソロウ・ソング(悲しみの歌)とジュービリーズ(喜びの歌)が、ジャズに与えた影響。ブルースの絶望のなかのユーモア。その他に、ラグ・タイム、ブギ・ウギ、即興演奏、シンコペーション、ブルー・ノート、リフ、ハーモニーなどなど、ジャズには欠かせないキーワードが、魅力的な挿話とともに語られてゆく。

『今日の音楽家たちは、ジャズでもってやはり楽しんでいます。--ちょうどむかしのスパズム・バンドの少年たちが楽しんだように。--そして世界中の人々がそれを楽しんでいます。--アメリカの音楽は、楽しみでもあります』

そして当時まだ出たばかりだったロックン・ロールについて、ヒューズが触れた部分。

『ーしかし…歌は正しいのです。愛して、愛があなたに戻ってこないということが、どれほどひどいことかを知るのに、あなたは若すぎるということはありません。それはブルースとおなじほど基本的です。そして、それがロックン・ロールの正体です』
『ロックン・ロールは、それらをみんなごっちゃにして、たいへん基本的なひとつの音楽をつくりますから、それはまるで肉屋の使う肉切り包丁みたいです』
『もしルイ(・アームストロング)が、J.Jやカイはーエルヴィスさえもーじぶんの出てきたのとおなじ海から出てきてのではないと考えるようでしたら、ルイは老いぼれようとしているに違いありません』

鋭くて、それでいて実に優しい。当時まだ新しかった音楽・ロックンロールに対しても、あたたかいヒューズのまなざしを感じる。

『作家が語る私と日本語(高橋源一郎講演会)』

作家が語る私と日本語(高橋源一郎講演会)

 世界の「物語化」を避けるには?

《随分前になりますが、朝日カルチャーセンターであった高橋源一郎氏の講演会へ行ってきました。字数がないので、覚書きで。後半、文学部の一般教養の授業みたいになりますが、この基本を保ち続けることは、確かに難しい…》

講演テーマ…戦争と小説と日本語
および日本近代文学と「百年の孤独」について

(日にち)2003年3月24日

(場所) 住友ビル43階33教室

☆戦争報道について

○日本のイラク戦争の報道
日本のニュースやワイドショーの論調は、いきなり花火があがってしまう。新聞などでも、事実から切り離された目に入りやすい言葉が宙をさ迷っている。あとはどうでもいい情報(「フセイン金髪好き!」など。スポニチの「フセイン宇宙人と交信!」までいけば見事。まあ確かに…)。

視聴者は、自分で判断して考えるための「情報」が欲しいのに、ブラウン管のむこうには、誰かの「意見」ばかりが飛び交っている。

○突然ですが、今なぜファンタジーが流行るのか。
・ファンタジーとは?
夢+物語
現実とは他に別の世界があって、主人公がそこへ行って、場合によってはまた戻ってくる。
例)ハリー・ポッター、ロード・オブ・ザ・リング、千と千尋の神隠し

現在のイラク戦争で、フセインやラムズフェルトが言う「悪の枢軸」というのは、よく考えればファンタジー。

目の前にある映像は事実。ただそれの用途が違っている。ハリーポッターでのほうきのように。

○チョムスキーの話し方
くどいほど、「この問題について集められた情報の範囲では、こういう結論が導かれる」と繰り返す。「私が知っているのはこれだけだ。あとはわかりません」というスタンス。戦争について語るには、本当はこれが一番必要。
←現実をファンタジーすることへの唯一の対抗策。

☆物語化(ファンタジー化)を避けるには?

○物語の鉄則
主人公は物語の中にいると気づいてはならない。

○映画の場合はどうやって「物語化」を逃れた?
・ゴダール『きちがいピエロ』
途中で何度も、ピエロがアンヌに言う。
「これってお話っぽくない?」
↑自分が物語の中にいると気づいている。それを口に出してしまうことで、物語化を逃れた。

○小説は物語に弱い?
日本近代文学の起源は、ガルシア・マルケス『百年の孤独』に似ている。
『百年…』にでてくる村は、はじめは物の「名前」がほとんどなかった。
それに対して、日本近代文学は、まず言葉を「変えて」みた。しかし変えてはみたものの、何を書いたらいいかわからない。

○ヨーロッパの「言葉+価値観」を直輸入。
「青春」「恋愛」「キリスト教」など。
なかでも究極の輸入品は「私」(このあたりは有名)。
…強い意味のある言葉として使ったのは明治20年代後半。
『蒲団』(田山花袋)

○この頃は「私」でさえ、人工的な言葉だった。そのことを念頭において、言葉には配慮し続けなくてはならない。

《最後、どうまとめるんだろうと思っていましたが、まとめはなく、鶴見俊輔氏の訳した詩の朗読で〆ました。そうやって物語化を避けたのか…。》

『エイヤ=リーサ・アハティラ 展/ 「ヴィデオアート」と「映画」の境界』

エイヤ=リーサ・アハティラ 展/ 「ヴィデオアート」と「映画」の境界

2003年3月21日(金)~6月8日(日)まで
東京オペラシティーアートギャラリーにて

フィンランドのヴィデオアーティストであるエイヤ=リーサ・アハティラの展覧会。今回の展示は、複数のスクリーンを用いたヴィデオインスタレーションが中心。ひとりの女性を主人公に配して、彼女の精神崩壊の危機を描く。

たとえば3面に渡った画面で、それぞれ少し時間をずらしながら進む映像からは、張りつめた精神状態の女性の心境が、痛いほど伝わってくる。理想と現実。そのギャップの前に、もろく崩れ去ってしまった女性たちは、いささか極端な形で映像の中で主役を演じる。

そこまで極端ではないにしろ、まわりから見たらさぞ滑稽だろうという心理状態に陥ったことは、私だって多少はあるわけなので、なんだか身につまされる思いで、この十分ほどの物語を眺めてしまった。

自己愛の極地……。確かにそうなのだろうけれども、それを全く他人事と思えるほど、私自身も強くない。

例えば最初の映像に出てくる白人女性は、叫んでまわりに不快感を与える近親者がいるため、精神的に極限に達しても叫ぶことができず、その代わりに自分の手を噛む。怒ってベットを壊すにしても、きちんとマットレスをはずして準備する。彼女は自分の行動が、滑稽だとたぶんわかっている。そんな鬱屈した行動のため、見ている側は、気持ちよくカタルシスも感じることができず、なんだか宙ぶらりんな心境に。

「精神科医になるつもりだったのに、自分が精神科に通うことになるなんて思わなかった」というモノローグなど、気の毒と思っていいのか、笑うところなのか……。

完全に狂えるわけではなく、理性に片足をつっこんだまま。ああ、自分はおかしくなっているなぁと、外側から自分を見つめているもうひとりの自分がいる。それが伝わってくる映像は、精神的な危機状態を、極めてリアルに示唆しているのではないだろうか。

それでいて、色とりどりのミニカーが配された壁や、自然のなかを「中途半端に」飛ぶシーンなど、魅入られてしまうシーンも多かった。

ただ、この作品にうっかり感情移入してしまうと、「私ってこれから社会でやっていけるのか」などと感じて、ドーンと落ちこんでしまったりするのでちょっと注意。