『カルメン/コロンバ』

カルメン/コロンバ

プロスペル・メリメ 著
平岡篤頼 訳
講談社文芸文庫

ビゼーのオペラでも有名な「カルメン」。その原作はこちら。

セビリアの煙草工場の衛兵ドン・ホセと激情の女カルメンの恋、そして破滅。悪女中の悪女でありながら魅力的なカルメンや、悲劇のヒーローであるドン・ホセの他にも役者がそろい、劇的なストーリーが展開する。

息もつかずに一気に読み、うーん、この時代の小説は、やはりおもしろいなぁ、そう感心して読み終えたと思ったら……。その先にはとんでもない蛇足が待っていた。

せっかく物語にひきこまれて読んでいたのに、物語が終わると、いきなり著者によるジプシーの解説が。それもかなりお堅い。それまでの物語の緊張感はガタガタと崩れ、読者は冷や水を浴びせられたかのように、目を覚ますのではないかと思う。

あまりの唐突さに、いったい何が起こったのかわからないまま、ただその掟破りの態度が妙に正しいようにも思え、次に収められた『コロンバ』も読み終えて解説へ進むと、ようやく謎が解けた気がした。

この本を訳した平岡篤頼先生の解説文に、こんな件があったから。

『スタンダールはすべてを疑ったが、疑う自分は信じていた。現実のすべてに失望していたが、それだけあるべき現実への夢をふくらませていた。それは彼の情熱のエネルギーが然らしめたものだが、まさしくそのエネルギーが欠けていたがために、《騙されないこと》というモットーが、メリメにあっては、創造の原動力となる無自覚的な仕事への没入をも妨げ、短編形式へ向かわせただけではなく、やがてスタンダールやバルザックやユゴーに伍して書きまくるのを不可能にしたのに違いない』

現代の作り手は、むしろメリメの感覚に近いものを、持っているのではないだろうか。もしかして多くの人々の心に残るような作品は、自分を信じていないと書けないのかもしれない。しかし自分さえも疑い、そのために求心性を失った作品の方を、私はよりリアルに感じてしまう。

すべてを壊してしまう「歴史的大蛇足」のため、逆にこの『カルメン』は、私にとって大切な作品となった。

『猫のムトンさま』

猫のムトンさま

アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ 著
黒木實 訳
ペヨトル工房 刊
夜想 yaso & parabolica-bis

フランスの異色作家・マンディアルグの手による、そのなかでもとりわけ異色な一作。処女作かもしれない作品で、出版さえも作者の念頭にはおかれていなかったそう。作者の「猫への偏愛」からか、とんでもないこと(?)になっている。

持って生まれた気質と運命の導きにより、従順に主人へ仕えてきたテレーズ嬢は、その高慢な女主人から、さらに輪をかけて高慢で素晴らしい猫をもらう。あまりにも屈辱的な一方的解雇と引きかえに。

それは本来、仕打ちとしての「猫押しつけ」だったのに、テレーズ嬢にとっては最高のプレゼント。この仕打ちの最中、初めてテレーズ嬢は、自分の感情を読み取られないよう、芝居をすることを覚えた。彼女が喜んだことを知ったなら、女主人は前言を翻しかねないので。

元飼い主同様に、高慢でサディステックな「猫のムトンさま」の行動に、もはや老嬢となったテレーズは、「率先して」振りまわされる。他にその猫以上の猫がいると言われれば、大胆にもそこへ潜入し、自分の主人であるムトンさまより劣った猫であることを確信して安堵する。また、立派な体躯を保つために去勢をしないものだから、さかりがつくと外泊をするムトンさまが心配で、一睡もできずに衰弱する。

とはいえ、自由奔放に振舞うムトンさまと、命がけで彼に仕えるテレーズ嬢は、両極端な気質を持ちながら、一本の線上にいるように思えるから不思議。

あまりにもあまりなふたりの生活は、秀逸なエピソードの積み重ねによりつむがれ、実に皮肉な魅力に満ちている。その魅力につられて最後まで読み進め、マゾヒストとも言えるテレーズ嬢の気持ちが、ほんの少しだけわかってしまい、本を閉じて苦笑いをしてしまった。

こんな結末ながら、きっとテレーズ嬢は、幸せだったのだろう。それでは、ムトンさまは?

本人に尋ねてみても、堂々たる体躯のままニャーと一声鳴いて、プイとその場を去られること必至だが、「自分の意思」で彼に人生を捧げた従順なテレーズ嬢よりも、むしろムトンさまの背中の方に、悲哀が感じられるのではないかと想像する。

『私の個人主義』

私の個人主義

夏目漱石 著
(当時持っていたのは)ちくま文庫版、リンク先は講談社文庫版

夏目漱石が四十七歳のとき、学習院大学で行った講演をまとめたもの。

漱石の小説は読んでいても、考え方自体を読んだことは、今まであまりなかった。そのためか、この時代ですでに、これだけのことを考えていたのかと驚いた。

しかしなにより、「個人主義」という言葉に対する考え方が、自分の思い描いていたものにとても近かったので、なんだかうれしい。

漱石は学習院を出て、これから「特権階級」につくことになる生徒たちに、自分の失敗談もあげながら、必死でメッセージを伝えようとする。

自分が自由でありたいならば、相手の自由も認めなければならないということ。権力と金を持っていることによって生じる勘違いについて。

ユニークだなと思ったのは、平和な世界に生きていながら、国家のことばかりを考え、明日にでも戦争が起こることを憂えるのは、火事が終わってからも火事頭巾をかぶっているようなものという例をひいたあたり。

漱石は、「平和な時代には、もっと他に考えることがあるのではないか」と、熱弁をふるう。 確かに、きちんとものを考えられる力を養っておけば、国家の非常時には、そのことについて、真剣に考えられるはず。しかし今回のテロ事件後の反応を見ると、せっかくそういう考えられる力を養ったとしても、現実には怒りによって簡単に潰されてしまうだろうと想像できる。

でも考えられるときに、考えておくことは必要なんだろう。あって欲しくはないけれども、ふたたび非常時が来てしまったら、考えられなくなってしまうような複雑で繊細な事柄について。

『私の個人主義』は、立派な考え方というのとも少し違う。この講演を行ったときの漱石の年齢を考えれば、むしろずいぶんと「青い」とも言えるかもしれない。しかし語られたことは、単なる理想主義とは違うように思える。

それにしても、この人のモラトリアム時代の長いこと…。しかしむしろ、妥協せずに自分がすべきことを、考え抜いたという点に感心してしまった。

こんな大文豪に、共感したなどと言っては失礼なのだけれども、思わぬ共通点を見つけ、うれしくなったことは事実。

そして、平和な(?)大正時代が終わり、その精神を受け継いだ人たちが、どんな思いでふたつの世界大戦に巻きこまれていったか。それを考えると、胸がひどく痛む。

明治から大正という時代を、もう少しよく知りたくなった。

『これはパイプではない』 ミッシェル・フーコー / 哲学書房

これはパイプではない

ミシェル・フーコー 著
豊崎光一 訳
哲学書房 刊
月曜社サイト内哲学書房ウェブサイト

ミシェル・フーコーが、ルネ・マグリットの絵について述べた本。タイトルは、マグリットの絵画からきている。その絵とは、大きなパイプが描いてあり、下にわざわざ「これはパイプではない」と書いてあるもの。確かに一筋縄ではいかない。

読み進めるうちに、言葉がただの言葉ではなくなり、絵の方も言葉によって、絵であるということ自体を危うくされる。

パイプを形作る面や書き添えられた言葉の線も、お互いを支えたり壊したり。終いにはマグリットの絵だけではなく、自分の周りのものすべての関係が、同じようにグラグラとして、やがてなぜかすっきり。

こんな「見方」をしてしまうと、もうマグリットの絵が、普通に観られなくなる。

フーコーを正しく理解しようなどと肩ひじはらず、ただ読むぶんには、いつもの凝りかたまった考え方を、解きほぐしてくれる楽しい本だった。

『横浜トリエンナーレ2001 メガ・ウェイブー新たな総合へ向けてー』

横浜トリエンナーレ2001 メガ・ウェイブー新たな総合へ向けてー

会場:パシフィコ横浜展示ホール 赤レンガ1号倉庫 他
2001年9月2日~11月11日

初の「ひとり旅」は、「横浜一泊 トリエンナーレ鑑賞」にしたかったのだけれども、いろいろな理由で挫折。涙…。

というわけで、半日で大雑把にまわることに。そのため観られなかった作品も多かった。

大雑把な見方ながら、印象に残った作品を少々。

オーストラリアのステラークは、『エグゾスケルトン』というマシーンを作りあげ、それに自ら乗りこんでガッチャンガッチャン。その情景を室内では映像で流し、部屋の外へはマシーンを展示した。ご本人の実にまじめな表情と、蟹のような激しく魅力的な「横動き」。あまりに強い個性に、すっかり目が釘づけに。

機械と人間とが合体し、他の生まれてはいけないものが、生まれてしまったようにさえ感じられる。

南アフリカのウィリアム・ケントリッジの作品は、アニメーション作品。木炭やパステルを用いたモノクロームの画面が、躊躇なく主題を(?)描き出す。アニメーションと言っても、描かれた絵が動き出したという印象。独特で無駄のないこの作品の前で、随分長い時間を過ごした。

オノ・ヨーコの作品が、赤レンガ倉庫の外に、ポツリと置かれていた。黒っぽい列車のコンテナ。そこから流れる奇妙な音楽に、導かれるよう側まで近づく。ううむ。これは遠くからでも、大変な妖気を感じるぞ。

目の前まで行くとコンテナには、弾痕のような跡がいくつもあいているのがわかる。後からこのコンテナが、ナチス政権下のドイツで、ポーランド人輸送に用いられた実物だと知った。

この作品には、今回のトリエンナーレに並べられた他の作品のような「迷い」が、みじんも見られない。そのためにひきつける力がとても強い。ただ、その迷いのなさは、私の世代とは全く異質なものだと感じる。

ドイツのマリール・ノイデッカーの作品は、映像と模型のようなもの両方で、白い山脈に映える日差しの動きをあらわす。長い時間の流れに、寄り添うような気持ちで鑑賞をした。

そして個人的に一番おもしろかったのは、スウェーデンのカール・ドゥネア+ペーダー・フレイの作品。作品の中へ足を踏み入れると、壁にいくつもの白い箱が取りつけられ、そこになんとも単純な造形の人形のようなものがいくつか置かれている。

印象深いけれども、ただ、それだけか…。そう思って立ち去ろうとしたら、人形のひとつが、見過ごしてしまうほどゆっくりと動いたのでもうびっくり。

鑑賞者がそこにいる間に、必ず人形が動き出すとは限らない。また、同じ動きを繰り返すことは、5年間もないという。

そのせいか、作品を離れてからも、鑑賞者にはその作品の持つ時間が残り、作品の中にも鑑賞者の余韻が残る。

いったい何を言っているんだ? ただひとつ確かなことは、今まで出会ったことのない類の体験を、作品から仕掛けられた気持ちになったということ。

『戦争論』

戦争論

多木浩二 著
岩波書店 刊

この「戦争論」は、美術評論家として知られている多木浩二さんが、なるべくわかりやすく戦争について書いた本。極めて客観的に書かれたこの本を読み進めると、戦争がどうやって起こるのか、どうして止められないのかというシステムが、次第にわかりはじめる。そして背筋が寒くなる。

「過去の戦争の記憶が確実に希薄化していく一方で、戦争の闇がいつの間にかまわりに立ちこめているという現在の状況を認識する方法を見出してみよう」(p.6)

感情的な戦争の話に耐えられないという、身勝手な繊細さを持つ若い人(かつての私も含む)には、戦争がどんなに悲惨かを強調する刺激の強すぎる論調より、こういう風に戦争が起こるプロセスを示した方が、より効果があるのではないだろうか。少なくても、この本を読んで、「戦争? 関係ないよ」という気持ちにはならない。

政治的な思想の偏りがなく、教科書などよりはるかに客観的なので、戦争の入門書(?)として最適な一冊。

戦争と一言で括っても、実は時代や状況によって、まるで違うシステムを持つということも、知ることができた。

特に最後の章「二十世紀末の戦争」は、戦争がいつ自分の周りにたちこめてもおかしくないということを、痛切に感じさせてくれる。敵が誰かはっきりとせず、誰を攻めて良いのかわからないのに戦争がはじまる…。想像するだけで、背筋が寒くなってくる。

あとがきに書かれた言葉も、強く印象に残った。

「書きはじめると不思議なことが起こった。戦争づけになった絶望的な時代の世界を相手に考察しながら、私は自分が、身体の向きをはっきり未来の方に向けはじめたのを感じた。そうしなければこれほど暴力的でなにも生まないカタストロフには取り組めなかった。可能なかぎり平易な言葉で書こうと努めたが、この本は自分が世界を生きることに結びついた仕事だった」

『ヒトラーの長き影』

ヒトラーの長き影

ウヴェ・リヒタ 著
 三元社 刊

そのタイトルの通り、「ヒトラーの長き影」、すなわち第二次世界大戦後のドイツの「闇の部分」について書かれた本。抽象論を振りまわすのではなく、幅広い領域を具体的に検証しているので、「かつてドイツにもこんなことがあったなぁ」と他人事のように振りかえる道は閉ざされてしまい、現在の自分たちへひとつひとつの問題がダイレクトに跳ねかえってくる。

そしてこの本は、ドイツの問題というよりは、先の大戦にかかかわった国すべての問題へ触れる。特にヨーロッパ大国が、今も繰りかえしている政治的なパワーゲーム。大戦が終ったあと、叩き潰す相手が、ナチスドイツではなくソビエト連邦共和国だと気づいたアメリカやヨーロッパの多くの国は、ドイツの戦争責任を追求してナチスへの協力者をあげるよりも、ドイツを反ソ連同盟の防波堤とするために、経済復興や再軍備の方へ手を貸す。戦時中も同じ文脈で、ユダヤ人の救済を行わなかった。

そうやって、日本と同じく、戦争に負けることでタナボタ的に民主主義を受容した戦後ドイツは、抵抗の歴史を持たないゆえに、つねに右傾化の危うさと隣あわせだ。

その場でうまく立ちまわれる人が、もっと広い範囲において、つねに正しいとは限らない。ドイツはその哲学の歴史のため(?)、誤った義務遂行と官僚主義的絶対服従という体制を生む。そして結果的に、アイヒマンのような「恐ろしく正常な大犯罪者」を生んだ。

ドイツと日本には、類似点も多いが、むしろ反対のような気質もある。しかし読めば読むほど、類似点が目立ってきて、頭が痛くなってくる。

戦争をはじめるには、それぞれの理由はあるのだろう。でも、どんなに自分たちが正義だと信じたとしても、他国に攻め入るということは、罪のない人々の命を大量に奪う愚行であることは、決して忘れてはならない。そして多くの戦争が、正義などからではなく、単に自分の国への利益を追求するためにはじまっていることを思い知らされる。

この本を読んでいるあいだじゅう、今おこなわれているアメリカとテロの戦争や、それに協力しようとこぞって手をあげる多くの先進国の姿が、本の裏側に何度もあらわれては消えた。

政治・経済・司法から文学・芸術まで、実に幅広いジャンルにわたって、具体的な話が進められるのだが、最後の連邦首相たちにどのようにヒトラーの長い影が残っているか検証するページでは、その厳しさが、あいまいな私自身にも突き刺さるようで、実に痛い読書となった。

『デトロイト美術館の至宝 印象派と近代美術の巨匠たち』

デトロイト美術館の至宝 印象派と近代美術の巨匠たち

福島県立美術館にて
2001年7月20日~9月2日

デトロイト美術館のコレクションのなかから、近代美術へ的を絞った展覧会。

印象派、後期印象派、象徴主義、エコール・ド・パリ、表現主義など、19世紀後半から20世紀前半にかけての西洋美術の流れを、作品を通して一望することができる。今では誰でも知っている巨匠の作品が並ぶので、解説はどうしても教科書的にならざるを得ないが、並べられた作品の「癖」が、この展覧会を特におもしろくしていた。

大作家の初期の作品で、後の世で評価される段階へ至る前の作品に、もうすでにその作者が持つ独特の癖がある。クリムトの初期デッサンには、もうあの退廃的な雰囲気がありますよ。うーむ、天然退廃でしたか……。

そのなかで印象的だったのは、クリスチャン・ロルフスの作品『向日葵』。実に開放的な健康さに満ちていて、この作品を「退廃芸術」とみなした社会があったことが、本当に不思議に思える。でも表現主義の作家だし、この人の作品だというだけで、退廃芸術のレッテルは貼られてしまったのかな?

ガチガチに規制を張り巡らせなければ、成り立たないような無理のある世界では、この絵のような自由さが脅威だったのかもしれない。

『エスター・カーン めざめの時』

エスター・カーン めざめの時

原題:Esther Kahn
2000年/フランス・イギリス
監督:アルノー・デプレシャン
脚本:アルノー・デプレシャン / エマニュエル・ブールデュー
原案:アーサー・シモンズ
出演 サマー・フェニックス / イアン・ホルム / ファブリス・デプレシャン / フランシス・バーバー / ラズロ・サボ / ヒラリー・セスタ

「二十歳の死」「魂を救え!」などの作品で、圧倒的なリアルを感じさせてくれたアルノー・デプレシャン監督の最新作。

19世紀末のロンドン、仕立て屋のユダヤ人一家の様子からはじまるこの映画は、暗いけれども魅力的な映像で、短いシーンが円形に閉じてゆく。ちょっとした秘密を覗くような感覚。その簡潔でも要所に曲者の匂いがする展開に、全く目が離せなくなった。そして最後まで観て、あまりのことにしばし呆然…。

家族とさえうまくコミュニケーションを取れないエスター・カーンは、寡黙で気難しく、「芝居」に出会うまでは、すべての傍観者にすぎなかった。それが芝居に出会うことで、内面に秘めた情熱に従うように、トップ女優への階段を昇る。……と要約できそうなものだけど(「ガラスの仮面」?)、そうは問屋が卸さない。確かにめざめるのだが、このめざめ方は、凡人が手を出してはいけない類のもので。

ひとりの才能ある女優が誕生する過程は、今まで観たどんなサクセスストーリよりはるかにリアル。実際の演技シーンになると音声が全部消されてしまい、観客は想像することしかできなくなるから、逆にリアルに感じるのかもしれない。

そもそもエスターは、一般に考えられているサクセスを求めてはいない。多分考えてもみないだろう。結果的にそうなり、彼女を邪険に扱っていた母が、いきなり彼女をまわりに自慢しはじめたとしても。

この映画の原作であるアーサー・シモンズの本に、デプレシャンは前書きを書いていて、そのなかで「アーサー・シモンズに感激したところは、多くの作家が作品のなかの登場人物に自分を投影するのに対し、この作家は作品の登場人物の考え方に、ただひたすら耳を傾けることだ」とあった。デプレシャンも今回、それに成功している(と思う)。

エスターのキャラクターは、ある意味とても痛快。彼女には、現実を否定したとしても、幻想に逃げるだけの経済的な余裕はなく、他に守ってくれる人物を得るほど、魅力的とはいえずに極めて頑なだ。 しかしだからこそ、彼女はその瞬間を、確実につかまえて前へ進む。チャンスには臆せずに立ち向かい、夢想へ逃げずに全部を実現する。

彼女が欲求に従い、すべてをやり遂げていく姿を見ていると、思わず納得してしまった。しかしそれがことごとく、まわりの人間関係とかみ合わないから、事態はとんでもない方向へむかう。

まわりの人たちの行動は、ノーマルなのだと思う。しかし彼らの一種の「世渡り」が、エスターを中心に置くと、そらぞらしく見えてしまう。 彼女を教えて導く売れない名優も、エスターのようにガラス片をかみくだいてしまえば、もしやスターになれるかもしれず、なれないかもしれず…。

それにしても最後の舞台のシーン。あまりの過激さにもう目が釘付け。この異常事態に、舞台関係者が慣れているように感じられる点が恐怖。

最悪の状態で「できてしまった」というのは、優れた才能を生むのかもしれないが、幸せを運ぶとは限らない。

これだけ過激なのに、とんがった雰囲気はない。むしろ作り手の楽しさや軽やかささえ伝わってくる。

『STYLE TO KILL 鈴木清順レトロスペクティブー殺しのスタイルー』

STYLE TO KILL 鈴木清順レトロスペクティブー殺しのスタイルー

暗黒街の美女

1958年/日本/87分/モノクロ/シネスコ
出演:水島道太郎、芦田伸介、高品格、阿部徹、近藤宏、二谷英明、白木マリ
原作・脚本:佐治乾
撮影:中尾利太郎
美術:坂口武玄
音楽:山本直純

東京騎士団(ナイト)

1961年/日本/81分/カラー/シネスコ
出演:和田浩治、清水まゆみ、禰津良子、南田洋子、ジョージ・ルイカー、かまやつひろし、金子信雄
脚本:山崎巌
原作:原健三郎
撮影:永塚一栄
美術:中村公彦
音楽:大森盛太郎

テアトル新宿にて
2001年5月19日~6月1日

有名な『殺しの烙印』も『けんかえれじい』もあったのに、どうしてこんなにマイナーな方へ行く……。

『暗黒街の美女』は、出所してきたばかりのヤクザがおりまして、そのヤクザが自分の逮捕の折、撃たれて障害を持ってしまった弟分のために、隠しておいたダイヤを売ってその金を弟分にやりたいと、親分に相談します。しかしこの親分が、実は欲深かった。その欲深親分が、ダイヤを自分のものにしようと画策するところから、事件がはじまります。

映画中に多用されるマネキンの使い方、そして最後の激しい撃ちあいやトルコ風呂(懐かしい響き)と石炭。これではなんのことやらわからないでしょうが、これらの使い方がスカッとするほど絶妙です。

『東京騎士団』の方は、和田浩治(若い頃の石原裕次郎によく似ているが、もう少し華奢で繊細にし、ジャズっぽいリズム感と音感を備えました。ピアノすごく上手だなぁと思ったら、ジャズピアニスト・和田肇の息子さんだったんですね…)演ずるスーパー高校生がおりまして、大きなヤクザの組長だったお父様が亡くなられたため、急遽留学先のアメリカから帰国。高校生のまま組を継ぐことになります。

しかしその組には、善人を装って組をのっとろうとする悪の手が…。

和田浩治のスーパー高校生ぶりがすごい。ピアノはジャズをバリバリ弾いちゃうし、英語もペラペラなのに嫌味じゃない。スポーツはラグビーから剣道、フェンシングまで全部いける。しかし鈴木清順が非凡なのは、さらにそんな彼へ、理系の才能と舞踊の才能まで与えた点です。作っちゃうんですよ。ライトにしかける盗聴装置をひとりで。そしてお父様がやっていらした能を、ジャズ風にアレンジして踊る。まあ、高校生なのに、外車を自ら運転して学校に乗りつけるあたりは、この時代の映画ではお約束。

こうやってみると、確かに「リアリズムがいかにおもしろくないか」ということがよくわかります。

さらにこの主人公は、当たり前のことのように繰り返される談合を、これもまた当たり前のことのようにぶっつぶし、ヤクザ絡みの土建屋を「正しい建設業」へ変えようとする。さらに健気にも、南田洋子演ずる実に美しい義理のお母様の新しい恋を、見守って助けようと心に決めます。そして敵だとわかった他の組の娘と、固い友情をかわし、やがてそれが愛情に変わって……。

正しい。まったく正しすぎる。それでいて主役の和田浩治は、なかなかせつなく、複雑な表情を見せます。

「弱いものをいじめる奴は誰だぁ。そんな奴らはぶっつぶせぇ」と歌うかまやつひろしは、まだ長髪でもなく、かなり若いのですが、歌声も動作も、今と変わらず、かなり怪しい。

めちゃくちゃおもしろい作品だと思うんですが、再度観られる機会がこの作品だけはないのが残念。それにしても、これだからやめられません。この時代の日本映画鑑賞。