『STYLE TO KILL 鈴木清順レトロスペクティブー殺しのスタイルー』

STYLE TO KILL 鈴木清順レトロスペクティブー殺しのスタイルー

暗黒街の美女

1958年/日本/87分/モノクロ/シネスコ
出演:水島道太郎、芦田伸介、高品格、阿部徹、近藤宏、二谷英明、白木マリ
原作・脚本:佐治乾
撮影:中尾利太郎
美術:坂口武玄
音楽:山本直純

東京騎士団(ナイト)

1961年/日本/81分/カラー/シネスコ
出演:和田浩治、清水まゆみ、禰津良子、南田洋子、ジョージ・ルイカー、かまやつひろし、金子信雄
脚本:山崎巌
原作:原健三郎
撮影:永塚一栄
美術:中村公彦
音楽:大森盛太郎

テアトル新宿にて
2001年5月19日~6月1日

有名な『殺しの烙印』も『けんかえれじい』もあったのに、どうしてこんなにマイナーな方へ行く……。

『暗黒街の美女』は、出所してきたばかりのヤクザがおりまして、そのヤクザが自分の逮捕の折、撃たれて障害を持ってしまった弟分のために、隠しておいたダイヤを売ってその金を弟分にやりたいと、親分に相談します。しかしこの親分が、実は欲深かった。その欲深親分が、ダイヤを自分のものにしようと画策するところから、事件がはじまります。

映画中に多用されるマネキンの使い方、そして最後の激しい撃ちあいやトルコ風呂(懐かしい響き)と石炭。これではなんのことやらわからないでしょうが、これらの使い方がスカッとするほど絶妙です。

『東京騎士団』の方は、和田浩治(若い頃の石原裕次郎によく似ているが、もう少し華奢で繊細にし、ジャズっぽいリズム感と音感を備えました。ピアノすごく上手だなぁと思ったら、ジャズピアニスト・和田肇の息子さんだったんですね…)演ずるスーパー高校生がおりまして、大きなヤクザの組長だったお父様が亡くなられたため、急遽留学先のアメリカから帰国。高校生のまま組を継ぐことになります。

しかしその組には、善人を装って組をのっとろうとする悪の手が…。

和田浩治のスーパー高校生ぶりがすごい。ピアノはジャズをバリバリ弾いちゃうし、英語もペラペラなのに嫌味じゃない。スポーツはラグビーから剣道、フェンシングまで全部いける。しかし鈴木清順が非凡なのは、さらにそんな彼へ、理系の才能と舞踊の才能まで与えた点です。作っちゃうんですよ。ライトにしかける盗聴装置をひとりで。そしてお父様がやっていらした能を、ジャズ風にアレンジして踊る。まあ、高校生なのに、外車を自ら運転して学校に乗りつけるあたりは、この時代の映画ではお約束。

こうやってみると、確かに「リアリズムがいかにおもしろくないか」ということがよくわかります。

さらにこの主人公は、当たり前のことのように繰り返される談合を、これもまた当たり前のことのようにぶっつぶし、ヤクザ絡みの土建屋を「正しい建設業」へ変えようとする。さらに健気にも、南田洋子演ずる実に美しい義理のお母様の新しい恋を、見守って助けようと心に決めます。そして敵だとわかった他の組の娘と、固い友情をかわし、やがてそれが愛情に変わって……。

正しい。まったく正しすぎる。それでいて主役の和田浩治は、なかなかせつなく、複雑な表情を見せます。

「弱いものをいじめる奴は誰だぁ。そんな奴らはぶっつぶせぇ」と歌うかまやつひろしは、まだ長髪でもなく、かなり若いのですが、歌声も動作も、今と変わらず、かなり怪しい。

めちゃくちゃおもしろい作品だと思うんですが、再度観られる機会がこの作品だけはないのが残念。それにしても、これだからやめられません。この時代の日本映画鑑賞。

『第11回 アウトサイダーアート展「メタモルフォーシス」ジュディス・スコット』

第11回 アウトサイダーアート展「メタモルフォーシス」ジュディス・スコット

資生堂ギャラリーにて
東京都中央区銀座8-8-3 東京銀座資生堂ビル地下1階
2001年6月20日~7月29日

画廊のなかへ足を踏み入れると、棒のようなものを布や糸でぐるぐる巻きにしたものが、何本もぶらさがっていた。ダイナミックなのに極めて繊細で、色とりどりの糸や布が複雑にからみあった色彩とあたたかな形態が美しく、この展覧会は「当たり」だなと直感した。

ただその造形物のひとつひとつが、ぐるぐる巻きにされた芯の部分に、作者の魂が宿っているように感じる。どうしてそう感じるのかは、よくわからないけれど。

実はこれらの作品の作者であるジョディス・スコットは、ダウン症と診断されて長いあいだ非人間的な施設に入れられていた。アートがなにかということすら、知らなかったのだという。そのことを、ようやく展示の最後にたどり着いてから知った。

しかしそういうバックグラウンドを知っても知らなくても、私はきっと好きな作家だなと思って家路に着いただろう。

ただ背景を知ると、今まで疑いもしなかった美術の歴史に、別の側面があることを思い知らされる。

それは、芸術の歴史の流れとは無関係に、いつでもどこにでもあらわれ、多くの人の心を揺さぶるような才能について。自分が芸術作品を創っているなどとも思わず、多くの芸術家が苦労して努力し、ようやく手に入れることができる色彩感覚・構成力を、いつのまにか用いて、まわりの空気を動かす作品を創ってしまう。さらに生きることと芸術活動が、必然的に結ばれている。

時の流れのどこへ置かれたとしても、まったく揺らがない剥き出しの才能。そういうものが確かにあるのだなぁと。

彼女の作品は、偶然に導かれて生まれた。もし彼女が、一卵性双生児でなかったなら、国によって強制的に収容されていた施設が、双子の妹へ彼女を渡さなかったなら、もし彼女がクリエイティブ・グロウス・アートセンターに出会わなかったなら、いま私たちが作品を、こうやって見ることはできないのだから。

作品からダイレクトに受け取る感情と、複雑なバックグラウンドから導かれるいろいろな美術についての考え。そういうものを引き出してくれたことを含めて、いつまでも記憶に残る展覧会。

SUZY HUG-LEVY 展― やさしい人体 ―

SUZY HUG-LEVY (スージ・フ=レヴィ)展
― やさしい人体 ―

会期:2001年9月3日(月)~26日(水)
INAXギャラリー(現LIXILギャラリー)にて
スージー・フ=レヴィ 展 HOME (lixil.co.jp)

展示スペースに足を踏み入れると、新聞を重ねて強くプレスし、タイヤの骨組みのようなものを押し込めた作品が目に入る。元の形状がわからなくなるほど、きつく圧縮された新聞紙のなかに、窮屈さは吸収されてしまったのか、作品のまわりには、逆に開放感があふれていた。
さらに、吊り下げられた洋服の作品がふたつ。いずれもワイヤーや針金で編まれ、実際には着ることはできない。でもその形は、中に透明人間でもいるかのごとく立体感があり、その服を着る人の雰囲気まで漂わせる。
多くの服飾作品が、それを着る人物や動きから切り離され、暗い美術館のなかで魂のないボディに着せられたとき、とたんに色あせてしまうのと違い、この服はその存在だけで、中に入っている人物の体型・動き・性格・状況・考え方などを、思わず鑑賞者に想像させる。しかもその想像は、鑑賞者それぞれによって、無数のバリエーションを持つのだろう。
展示の真ん中には、太い針金で作られた小さな人体が、いくつも吊るされていた。「止まったまま」躍動するように感じる小さな人体ひとつひとつが、風が入るたびに少しだけ揺れて、白い壁にその影が映ると、作品のスペースがぐんと広がって見える。
軽やかなのに、深い重みを持った作品の数々に触れると、なんとも自由な気分にさせられた。
作者はトルコの女流アーティスト。たとえ国や文化は違っても、同時代の感覚は共有できるものらしい。硬質な素材を使っているにもかかわらず、柔らかい曲線が生み出す美しさに魅せられ、すっきりした気分で会場を後にした。

『穏やかな生活』

穏やかな生活

原題:Смиренная жизнь
1997年
日本・ロシア合作
カラー/ビデオ/76分
アレクサンドル・ソクーロフ
出演:松吉うめの 尺八演奏:古川利風
BOX東中野にて

奈良県明日香村に暮らすひとりの老いた女性。彼女が生活を送るテンポそのままに、ゆっくりとした時の流れで捉えられた異色のドキュメンタリー。

電気や暖房設備があったとしても、まったく無意味な築百年以上の日本家屋に、この女性は住んでいる。

その家屋をソクーロフが撮ると、高い屋根の梁をわたる風や、女性のまわりで微妙に動く空気の気配まで感じられる。

そしてもうひとつ、クローズアップとは怖いものだなと思った。何度も極端なクローズアップをすることで、この女性の佇まいの美しさ、おそらく本人も気づいていない鏡台の前に座ったときの色っぽさ、はいているモンペのようなズボンのきれいな柄などが、それだけでこの女性の素性を明らかにしてしまう。

つましい生活を送っているけれども、やはりこの女性は、旧家の女主人だった。紋の入った留袖を縫うことで、彼女は生計をたてている。その着物を縫う姿を、ずっと眺めていたくなる。

ところで、着物を縫うときに使う「こて」を、炭の灰の中に入れて温めたりしたら、灰が付いて着物が汚れると不安になった人、私の他にいませんか?  和裁ではないけれど洋服の方の専門家である叔母によると、あの灰は軽いので、全部すぐに飛んでしまうそう。灰になじみにない世代なんだな、私って……。

閑話休題。数日間滞在した旅人(ソクーロフ?)が、明日去るという日の夜、女性は留袖に身をつつみ、少し痛んだ屏風の前で、旅人を送るために唄を詠む。

お辞儀がまるで浮かない映画というのは、本当に久しぶり。こういう身のこなし方というのは、付け焼刃ではどうにもならないものなのだろう。

まわりにほとんど家のない山の上で、いままでの時代の澱をすべてかぶって送る生活は、当事者にとっては快適なのかもしれない。ただその反面、とてつもなく不便で厳しいもの。厳しさをわきまえず、その生活に戻ろうなどと、言うべきではない。

ソクーロフの映像が素晴らしかったのは、その生活のありのままをとらえ、礼賛も批判もないところ。ただ事実だけが、静かに伝わってくる。そして事実の合間からふいにこぼれる感情に、思わず涙さえこぼれた。

しかし一番ぞっとしたのは、この映画で描かれた生活を、自分が残らず全部知っているということ。地方出身だからなのかもしれないが、たぶん私の子供のころまでには、身近にあった生活なのかもしれない。

10年ひと昔と言うけれど。時の流れのあまりの早さと、失っていくものの多さに、背筋が寒くなった。

『日本オランダ現代美術交流展「3分間の沈黙のために…:人─自然─テクノロジーの新たな対話」』

日本オランダ現代美術交流展「3分間の沈黙のために…:人─自然─テクノロジーの新たな対話」

十思スクエアにて
東京都中央区日本橋小伝馬町5-1
期間:2001年4月15日(日)~5月6日(日)
G.A.P内テキスト一覧『3分間の沈黙のために…:人─自然─テクノロジーの新たな対話』

(参加アーティスト)
有地左右一+笹岡敬小杉美穂子+安藤泰彦佐藤時啓浜田剛爾、水留周二、アネッケ・A・デ・ブーア、アネット・ファン・デ・エルゼン、クリスティアーン・ズワニッケン、ヘルマン・デ・フリース、パウル・パンハウゼン、ロブ・ム-ネン

小伝馬町の十思スクエアという小学校跡地を舞台に、日本とオランダから11組のアーティストが参加した展覧会。

近くにかつて処刑場もあった(!)というだけでなく「学校が舞台」というのは、それだけでちょっと怖く感じるもの。ともかく観る側にとっては、その舞台を意識せずに、作品だけを純粋に眺める気分にはちょっとなれない。

教室の前に目隠しのようにロッカーが並べられ、そこに窓にゆらめく旗がかすかに映っていたり、生徒の人数の分だけあいた穴から、教室の不思議な映像が覗けるたりする作品。教室の蛍光灯がランダムについたり消えたりするけれど、そのキレの良さがただごとではない作品。張りめぐらせらた紙が、作品のなかを歩く人が動かす空気を、過敏に感知する作品。ふたつの教室をまたいで、映像が重なりあう作品。さまざまな豆が敷きつめられた和室。不気味な鳥の頭が独特な動きをして、つっつかれるんじゃないかと怖くなる作品。塩がもられていたり酒樽が置いてあって、「なんだなんだ魔よけか?」というような作品。そっけないドラム缶が、音を奏でるだけなのだけれど、不思議な風情のある作品など、それぞれが教室という舞台を借りながらも、そこにとどまらない世界を、鮮やかに見せてくれた。

次の教室に、一歩足を踏み入れると、自分の五感が、あらゆるところから刺激されるのがよくわかる。学校というところが、勉強以外にも喜怒哀楽全てを含んでいたように、この展覧会を観ていると、自分をいろいろなところから試されている気分になる。

どれもこれも一筋縄ではいかない作品ばかり。そして、こんなに動いている作品が多いのに、失声症のような沈黙を感じることが実に不思議。

パフォーマンスまでを含めて、ひとつの作品展だったのだろうけれど、そちらの方はひとつも観られなかったのがちょっと残念。

帰り際、おそるおそるトイレに寄ったら、やっぱりここも古い小学校のトイレの趣きがそのまま残り、なんだか怖い。スタッフのお姉さんが、「なぜかここのドアだけ開かないんですよ…」なんて教えてくれるものだから、みんな「キャー!」となってしまい…。

印象深すぎる展覧会になりました。スタッフのお姉さん、ノリ良すぎでしょう!

『SPACE ODYSSEY 宇宙の旅』

SPACE ODYSSEY 宇宙の旅 水戸芸術館開館10周年記念事業

水戸芸術館現代美術ギャラリー
期間:2001年2月10日(土)~ 5月6日(日)

アーティストによる宇宙を表現した作品と、科学者がとらえた宇宙の姿を、同時に展示した作品展。

120億光年という遠くにまで広がる「宇宙」が相手であるために、アーティストが表現した作品よりも、科学者が写した写真の方がむしろ興味深く感じられる瞬間がある。宇宙なんていう代物を相手にすると、アートもさすがに大変だ。

ただ、だからこそ、科学者による宇宙の写真と抽象絵画が、「同じように見える」なんてことも起こるわけで。

トーマス・シャノンの作品は、空間に吊り下げられたいくつもの球体が、地球の磁場に添って、どの角度から見ても同じ色に揃って見えるというもの。この部屋にはいつまでもいたかった。こういう宇宙の現象自体を取り入れたアート作品は、実に印象的。

イームズ夫婦が製作した映像「パワー・オブ・テン」は、倍率をどんどん下げることで宇宙空間へ飛びだして行くというもの。人間の肌から地球の外へ、さらに銀河系の外へとカメラがひいていき(?)、再び今度は倍率を上げながら元の場所へ戻る。観ている側は、かなりのスピードで、普通に感じている視点、地球規模の視点、さらに銀河系規模での視点と旅をつづけるわけで、こういう旅を経てしまうと、元の場所に戻っても、その場所が同じ場所と感じられなくなる。

これらの作品のようになってしまうと、科学の作品なのか、アート作品なのか、もう判断しがたいし、しなくていいのかもしれない。もう一度ゆっくり観たいな。

『野口里佳写真展 「果たして月へ行けたか?」』

野口里佳写真展 「果たして月へ行けたか?」

Noguchi Rika 野口里佳
パルコギャラリー
期間:2001月1日19(金)~2月12(月)

なにもかもが不思議…。

その理由は、中心にいる人物らしきものに比べると、大地や空といった風景が広すぎて、人物も風景もどちらも主役のように思えてしまうからかもしれない。また、どの色もはっきりとして美しいのに、少しよそよそしく感じるからかもしれない。

すべてが、私自身が勝手に決めたカテゴリーにはおさまってくれないし、こうだと思おうとすると、そこをすり抜けてしまう。

写されている場所はどこだろう? 実際にある場所なのかな、それとも…などと、いろいろと考えながら足を運ぶうちに、不思議なのに安定感すら感じる写真とは裏腹に、私の心の中は、グラグラと揺らぎはじめる。

パンフレットに、作者の方自身の言葉があり、それを読んで確かにそうだなと思わずうなずいてしまった。

「私は、宇宙人から頼まれて、地球の記録写真を撮っている気がする」

自分が今まで信じていた地球の姿を、他の星の生物が違う角度から眺めると、こんな風に見えるのかも。自分の住むこの惑星の存在を、あたりまえと思わず、じっくりと捉え直すきっかけをもらったような気分になった。

『荒木珠奈展「途中の森」』

荒木珠奈展「途中の森」

Araki Tamana 荒木珠奈 (studiotamana.com)
Gallery Jin
期間:2000年12月19日~12月26日
東京都武蔵野市吉祥寺本町2-26-12-2F(当時)

ギャラリーの扉をひらくと、華奢な長い梯子が何本か見えた。それらの梯子は、床に置かれた円形のフェイクファーから、天井に配された紙のようなものを突き抜ける形でかけられている。

床のフェイクファー、何本かの細長すぎる梯子、パラフィン紙に浮かびあがる世界地図の染み。そのバランスは絶妙で、ちょっと触ったら崩れそうなほど繊細なのに、無駄なものひとつなく安定感すらある。

そこだけに、淡いライトが当たっているから、梯子の先に続く想像の中の別世界に、一瞬にして引き込まれてしまった。

不思議と気持ちが軽くなり、クリスマスで賑わう吉祥寺の町へ、再び戻る勇気がわいた。

『ミーヨン写真展 「’EXISTENCE -Erigeron canadensis’」』

ミーヨン写真展 「’EXISTENCE -Erigeron canadensis’」

美延 Mi-Yeon
Gallery Mole
東京都新宿区四谷3-7

ありふれた街、コンクリートの車道。唯一舗装されていない1部分に、たくましく根をはった雑草。そこにファインダーを向けつづけることだけなら、誰にでもできるかもしれない。

しかしここに並んだモノクロームの写真1枚1枚は、普段見ている雑草の違った一面を、浮かびあがらせる。 白と黒のコントラストが強いからか、見慣れたはずの光景が、まっすぐこちらに迫ってきた。

焦点のあっている雑草は、力強く、はっきりと前へ出て、側を通る人間や車は、かなりぼやけている。あくまでも主役は、雑草の一生。しかしそこから、雑草が根をひろげた平凡な街の朝全体について、自由に想像の翼をひろげることもできる。それが、この写真の持つ力なのかもしれない。

コンクリートの狭間に芽吹いた命の力強さは、二週間ほどではかなく命を終えてしまうが、その後、ひとりの女の子が、雑草のあった場所にしゃがみこんで手を伸ばす。

最後のこの一枚の印象が、特に強かったため、命が終ってしまうさみしさよりも、これからつづいてゆくなにかを受け取った気分になった。

『ミーヨン写真展 ‘EXISTENCE’』

ミーヨン写真展 ‘EXISTENCE’

美延 Mi-Yeon
ギャラリートモス
東京都中央区日本橋本町1-3-1 渡辺ビルBF

道を歩いていると、硬いコンクリートを割って顔を出している雑草ばかりに、不思議と目がいってしまうことがある。

コンストラストが強いモノクロ写真が並ぶこの写真展で、被写体はそんな雑草やアスファルトの道の地表。見慣れたものばかりのはずなのに、それは実はあり得ない光景だとやがてわかる。

会場にいらした写真家さんにお話を伺ったら、写真を1枚撮った後、そのままシャッターを切らずに2度押しすると、2枚目の写真が前のフィルムに重なって写り、こういう独特な効果が出るそう。

見慣れたはずのものが、微妙なズレによって、少し不安定なものに形を変えているからか。それとも撮られた対象自体を、じっくり眺めたことがないせいか。写真を見続けていると、ここのところあまり動かなくなっていた感情が、強く動きはじめたことに気づいた。

現実をずらしたからこそ浮かびあがる本質を、1枚ずつ丁寧に確かめていきたい写真展。見終わった後、なつかしいような、不思議なような、なんともいえない感覚にとらわれた。